みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

舞台に見た不条理を現実に見る

今週はフルで在宅勤務だった。

東京に来てから東京の満員電車を嫌悪しているので、極端に早い時間に出勤したりして満員電車を避けてきた。去年、当時所属していたチームの上司が育児中ということもあって、はじめて在宅勤務を経験した。そして、家からでも出来る仕事をしているときに出勤する意味、わざわざ満員電車に乗って出勤する意味を全く理解することができなくなった。

今週、フルで在宅勤務をしてみて、ますます出勤する意味がわからなくなった。朝起きて、朝ご飯を食べて支度をして、ふらっと近所を散歩して、帰って来て軽いストレッチをして、ゆっくりコーヒーを入れて一息ついても、まだ始業開始までに時間がある。もちろん、家で仕事が出来る場合でも、あえて対面でやったほうがいいことがある場合もあるということも分かってはいる。チームメンバーとランチしたりすることでコミュニケーションが深まるというのもあるだろう。だけど、現在の状況では言わずもがな、そもそも東京みたいな、都市計画として交通が終わってる都市部(悪口)では、チームメンバー同士の定期的なコミュニケーションの機会は保ちながら、本当に対面でのやり取りが必要とか、現場でしかできないことがあるときだけ出勤する、みたいな仕事の仕方にもっと積極的に切り替えても良いんじゃないんだろうか。わたしが在宅勤務に適応できる人間だからそう考えるのもあるんだろうけど。

ただ、在宅勤務自体は苦ではないものの、家にこもることはわたしの心にそれなりの負担をかけているらしく、木曜日くらいから胸のあたりがもやもやして深呼吸がうまくできない。ジョンのことがあったときも同じような症状があったので、新型コロナへの不安とかストレスによるものなんだろうとは思うけど、外出自粛を求められる現在の状況をそれなりに楽しめている(苦に感じていない)部分もあるから、どうやったら症状が解消するのかがいまいち分からない。

なにより、東京都の感染者はどんどん増えているのに、国の打ち手がことごとく想像の範疇を超えてくるから、さらに心が疲れてしまう。わたしは幸運にも在宅勤務ができる職種で、現在のところは収入が絶たれる心配もない。家にこもることに多少のストレスは感じているものの、感染の不安をあまり感じることなく散歩したりすることもできる。それはすごく幸運なことだと思っている。けれど、一方で、省庁に勤めている友だちはもうずっと前からバカみたいな時間まで働いてすっかり疲弊していて、医療現場に勤務している友だちは現場のキャパオーバーや感染の不安でピリピリしはじめている。大阪にある大好きなレストランや、お世話になっている東京のお店たちは、経営が危うくなる中でなんとかこの状況を凌ごうとあれこれと工夫をしている。そんな状況のなかで、給食当番のときにつけていたような布マスク2枚が届くらしい。客足が激減したお店への休業補償はいつまで経っても出ないらしい。(東京都は独自で出したようだけれど)

数か月前に『カリギュラ』を観たとき、なんとなく、カリギュラという「暴君」によって統治される状況は今の日本と似ているなと思ったけれど、日に日にその感覚が強くなってきている。日本の為政者たちにとっての最重要事項は国家財政や国家の経済、または自分自身の権威であり、そこでは民衆の命は取るに足らない。何人かが命を落としたところで、彼らにとっては痛くもかゆくもないのだ。

いいか、馬鹿者、よく聞け。国庫が重要なときに、人の命は軽い。はっきりしている。おまえのように考える者は、みな、この道理をみとめてしかるべきだ。金がすべてだと思っている以上、人の命など何でもない、そうみなすべきではないのか。要するに私は論理に従うことに決めた。私には権力がある。論理がどれほど高くつくか、おもえたちはみることになるだろう。*1

自らの権力を自分の利己的なロマンを叶えるために使うこと。『カリギュラ』で、わたしは「死」という出来事に打ちのめされて「不条理」に成り代わろうとするカリギュラに、ある種の共感と愛着を抱いた。だけど、「死」という「不条理」に対する彼の絶望や哲学や思考ではなく、彼がとった実際の行動に焦点を当てるのであれば、彼がやっていたことはひどく自己中心的で、幼稚なことだったのかもしれない。

心が疲れる。

*1:p.31 アルベール・カミュカリギュラ』ハヤカワ演劇文庫

めまぐるしい変化のなかで

あまりにも世の中の空気が変化するスピードが速いので、いろんなことを忘れないように身の回りのことを書き留めておいたほうがいいのかなと思ったりしている。

4/15に予定されていたかが屋の単独ライブは5月末に延期になった。追加公演のために確保していた草月ホールで断行するらしい。北沢タウンホールの倍は入る草月ホールで、1席ずつ間をあけて座席番号が振られた座席表を見て、運営に関わる人たちの想いや本人たちの悔しさを想像してしまう。再来週末(4/18-19)に予定されていたSexy Zoneの仙台公演も中止が決まってしまった。そうなるだろうなとは思っていたけど、1月後半、中国でCOVID-19の感染が広がってきたばかりの頃は、こんなことになるとはよもや考えてもみなかった。

1月下旬、中国での感染が報じられるようになった頃、中国に親戚がいたり友人がいたりするのでそれなりに状況は心配だったけれど、それほど不安にはなっていなかった。基礎疾患がなければ感染しても症状は軽いらしい、というような記事を読んだのもあるかもしれない。2月上旬ぐらいまではそのスタンスだったような気がする。

2月下旬から3月上旬あたりは、韓国での抑え込みに成功しつつあるニュースや欧州での感染が広がってきたニュースを見ながら、徐々に危機感をつのらせていた。自分自身が体調を崩していたからというのもあるけれど、勤務先の上司や同僚と危機意識が全然かみ合わず、感染者が増えていくなかで、在宅勤務にできる業務内容でかつ環境も整っているのに一向に在宅勤務に切り替わらないことにものすごくイライラしていた。出来る範囲で、むりくり在宅勤務にしてみたりもしていた。けれど、そのうちそうやって上司や同僚、同じフロアで仕事をしているほかのおじさんおばざんたちの能天気な雰囲気に抗うことがめんどくさくなって、いっそ職場で蔓延して中年全員重症化しちまえばいいんだみたいなやぶれかぶれな気持ちになって、3月中旬は普段通り毎日満員電車に揉まれて出勤していた。

そんなやぶれかぶれの状態で迎えた3/20-22の三連休は、天気が良かったこともあってか、「感染しても大したことないらしいしなんかもう大丈夫っしょ」というような気持ちにすらなっていた。人があまりいないことを期待して訪れた新宿も渋谷も人でごった返していた。小中高の一斉休校が4月から解除になるというニュースがあったのも関係していたのかもしれない。けれど、それからわずか2日後の3/24、オリンピックの延期が決まった。その途端に、いろんなことの風向きが急に変わった感覚がある。ちょうどそのころに欧州やアメリカでの感染者が増加し、それについての報道が活発になってきたことも関係があるだろうし、東京でもにわかに感染者が増え始めていたことも関係があるのだろう。週末の外出自粛を受け、勤務先でも原則として在宅勤務のお達しが出た。一週間家に居続けるのは意外と結構しんどくて、昼休みには運動不足解消がてらに近所をウロウロと歩き回っていた。そうして、今週末。相変わらずの外出自粛。用事があったので街に出てみたら、それなりに人はいるものの、夜の商店街が地方のシャッター街のようになっていてびっくりした。わたしが大事に思ってきた大阪のお店たちは大丈夫だろうか。

最近、週末にインドのひとと英語のセッションをしているのだけど、1週間でめまぐるしく状況が変わるから、最近のあいさつは"Stay safe and take care of yourself"みたいな感じになっている。来週は状況が悪くなっていないといいね、というような話をするようにもなった。

9月のビリー・アイリッシュの来日公演は開催されるのだろうか。わたしが好きな音楽や演劇はこの危機を乗り越えられるのだろうか。わたし自身も仕事をクビになったりするのだろうか。このパンデミックが過ぎ去ったあとに、世界の捉え方という点で何か別の枠組みや価値観が生まれ得るのだろうか。ペストのあとにルネサンスが勃興したように。少しだけ酸素が薄いみたいな不安の中で、ぐちゃぐちゃといろなことを考えてしまう。

来週はどんな世界になっているのか、まったく想像がつかない。

「生活」

syrup16gではない。

来週から4月。気づいたら近所の桜も見事な満開でいつのまにか春になっていた。今年はイベントを減らしてやるべきことをやろうとか思っていたけど、新型コロナウイルスのせいで予定に入れていたイベントが勝手になくなっていく。かが屋の単独もSexy Zoneのツアーもダメなんだろうなとか思っている。かなしい。

新型コロナはおいといて、自宅で集中して作業するために環境を整えようと気合を入れてみたら、2週間かけて部屋の模様替えをすることになった。そして引き出しがいかに大事なものなのかを思い知った。引き出しはすごい。とっちらかっていたあれもこれも全部その中に収めてくれる。どうしてこんな簡単なことに気づかないまま3年過ごしてしまったんだろう?(最初の頃はカラボ3つ、テーブル、ベッドだけで生活をしていた。それなりの本や服をどうやって収納していたのかもう何も思い出せないのが怖い。)

高い椅子も買ったし家で飲むためのコーヒーも買った。あとはいかに自分を律することができるか。だけど、わたしはわたしに甘すぎるのでそこがいちばんの問題。2月から3月にかけて、新しいチームでなかなかうまくいかなかったりヤバめの風邪(たぶんインフル)をひいてダウンしたりしていたこともあって、余計に自分に甘々になってしまっている。まだ椅子が届いてないからとか、理由をつけて毎日のようにNetflixでバカみたいにドラマと映画を観た。愛の不時着も良かったけどセックス・エデュケーションもドハマりした。「セックス・エデュケーション」っぽい内容もだけど、みんながみんなちゃんと最低な人間なところも好き(すべてにおいて完璧で正しい人間(現実にはほとんど存在しないやつ)が出てこない)。トランスの話はまだ出てきてないけどシーズン3以降に入ってるのだろうか。

そういえば1月の生理痛で地獄を見たので超低用量ピルをはじめてみたりもした。心配していた副作用は全くなく、誇張とかではなくてリアルに量が1/500ぐらいになってめちゃくちゃびっくりした。鬼のようにかさばる夜用も必要なくなった。1シート(1か月分)1000円ちょっとだけどナプキンとか痛み止めにかけてたお金を考えるとトントンという感じ。むしろ物理的な痛みとか明らかなメンタルのブレとか下痢とかそういうのがなくなったのでプラスかも。現段階で子どもを持ちたいという思いがない(orそもそも考えたことがない)なら、よっぽどの理由がなければピル服用したほうが圧倒的に生活の質があがるのでは?というか服用しない理由がなくない?なんて思ったりしている。こういう情報は高校ぐらいで教えておいてほしかった。

でもってこんなタイミングだけどダンスを再開した。もしかしてわたし前からここに通ってたのかな?って思うぐらいクラスの雰囲気が最高すぎてめちゃくちゃに楽しい。どうやったらああいう良い雰囲気を作り出せるのか、と思ったけどたぶん初めて行ったときにフランクに話しかけてくれたおじさんのおかげだな。ありがたい。きれいに踊れるわけでは全くないけど基本の基本は体が覚えていたりして、それもなんだか楽しい。新型コロナのことがあるからしばらくは行けなさそうなのがつらい。

前の更新から今日まで、大したことは何もなかったと思ってたけど書いてみると意外といろんなことがあったみたいに見える。そういえば誕生日もあった(思い入れがないので図書館で過ごして終わった)。あしたは作業がんばるぞ。

20200221 泣くロミオと怒るジュリエット@シアターコクーン

桐山照史が関西弁で舞台?しかも鄭義信作品!?という軽いノリで観に行ったら、ロミジュリというよりかはパッチギで、時代背景とか歴史とかを知っているのと知らないのとでは見える世界が全然違うだろうなと思いながら、細かい演出やちょっとしたセリフに心臓めった刺しにされて死ぬほど泣いた。

www.bunkamura.co.jp

あらすじ(公式サイトより引用)

戦争が終わって5年。港を擁する工場街ヴェローナ。工場から出る黒い煙と煤に覆われた鉛色の街。その街の空気をさらに不穏にしているのは、顔を合わせる度に揉め事を起こす2つの愚連隊”モンタギュー”と”キャピレット”だった。“モンタギュー”の元メンバーで、今は更正してカストリ屋台で働く奥手でまじめな青年ロミオ(桐山照史)。ロミオの親友で、喧嘩っ早くいつも問題を起こす張本人のマキューシオ(元木聖也)と、正反対に聡明で理知的なべンヴォーリオ(橋本淳)。3人はそれぞれに、今の時代や自分の境遇に悩みや閉塞感を感じていた。そんな日々の憂さ晴らしに3人が出かけたダンスホールで、田舎から出てきたばかりのジュリエット(柄本時生)に出会い、ロミオは人生で初めての恋に落ちる。しかしジュリエットはなんと、敵対する“キャピレット”のリーダー・ティボルト(高橋努)の妹だったのだ…!そんなことはお構いなしに燃え上がる2人の恋。ロミオは白頭山東洋治療所の店主で父親のような存在のローレンス(段田安則)に相談するが…。2人を取り巻く様々な人物と共に、街は大乱闘に巻き込まれていく…。

 

戦争が終わって5年ということは1950年、ちょうど朝鮮戦争が起きた年。ロミオがジュリエットに出会う前、モンタギュー愚連隊のヤツらが「俺たちに明日はあるのか?」と話しているときに「戦争が始まっちまった」というようなセリフがあったが、それはおそらく朝鮮戦争のことを指していたのだろう。

1945年、日本が敗戦国となり、植民地だった台湾や朝鮮半島の人々は解放された。強制労働や経済的な事情から日本に渡っていた旧植民地出身者(台湾や朝鮮)も多くが本国に帰ったが、「国に帰っても住む家もなければ耕す田畑もない人、そして日本ですでに生活の基盤を築いている人*1」は日本に残った。

モンタギューのヤツらが警官から「三国人」と呼ばれていたことや、マキューシオが警官の耳元で「ケェセッキ」と侮辱の言葉を吐いてボコボコにされていたことから、かれらは朝鮮半島にルーツを持ちながらも「帝国臣民」として育ち、そして「同じ国」だった日本に渡った1世、または、そのような人々のもと日本に生まれた2世なのだろう。

ロミジュリもとい日本人の少女と(在日)朝鮮人の青年のラブストーリー。『パッチギ』もそんな感じだったけど逆だったよなとか思ってNetflixで観て、パンフレットを読んでいたら鄭さんが『ウエストサイド物語』のオマージュと言っていたので『ウエストサイド物語』も観た。

作品 発表
時期
舞台
設定
詳細
ジュリエットの家 ロミオの家
ロミオとジュリエット(戯曲) 1595 1300 キャピレット
神聖ローマ帝国皇帝派
モンタギュー
ローマ教皇
エストサイド物語(映画) 1961 1957 ジェット団
プエルトリコアメリカ人1世
シャーク団
ポーランドアメリカ人2世
パッチギ(映画) 2005 1968 京都朝鮮高校
在日朝鮮人2-3世
京都府立東高校
日本人
泣くロミオと怒るジュリエット(戯曲) 2020 1950 キャピレット
日本人/内地人
モンタギュー
三国人/外地人 or 在日朝鮮人1-2世

青字は被抑圧層または階級が低い方。『ウエストサイド物語』だとどちらも移民の家で、警官だけがアングロサクソン、つまりは正当なアメリカ国民とされる階層。こうやって比較すると、『泣くロミオと怒るジュリエット』ではロミオが弱者のほうの出自になっていて、構造がちょっと違うことが分かる。

『ウエストサイド物語』でトニーが殺されたとき、マリアは銃を奪ってこう言う。

All of you! You all killed him! And my brother, and Riff. Not with bullets, or guns, with hate. Well now I can kill, too, because now I have hate!

あんたたちみんな!みんながトニーを殺したんだ!兄を、リフを殺した。銃弾や銃じゃなく、憎しみ(hate)で殺した。わたしにも殺せる、わたしも憎んでいるから!

鄭義信版ロミジュリは舞台を戦後にしたからか、死の理由が戦争に関連づく部分が多かった。ティボルトが死を願ったのは、彼が戦場ですでに人間として生きる希望を破壊されてしまったからだろうし、ジュリエットが偽の毒を飲まなければいけなかったのも、戦争で誰も信じられなくなった金貸しの執拗な取り立てがあったからだった。『ウエストサイド物語』をオマージュしていて、しかも在日の話だったら、両者の争いや憎しみ(hate)がなければ彼が死ぬことは無かった、と『ウエストサイド物語』と同じようなまとめ方をしてもよさそうなのに、何か思い入れがあったのだろうか。戦争がその究極のかたちということなのかな。

個人的にいちばん印象的だったのは最後の場面。かなしくて美しかった。人々が互いに殺しあうなか、牧歌的なゆったりした音楽が流れ、血のように赤い花びらが大量に降り注ぐ。舞台の奥から、純白のタキシードとドレスをまとったロミオとジュリエット、白装束に身を包んだティボルトとマキューシオが姿を現す。窒息してしまいそうな勢いで降り注ぐ花びらのなか、ロミオとジュリエットは静かにキスを交わす。

正直なところ、ロミオとジュリエットという名前を踏襲する必要はなかったのでは、と思うくらい鄭義信が濃かった(?)けど、名前がカタカナのままで日本名とか朝鮮名とかそういうものがパッと聞いてわからないからあえてそのままにしているのかなとも思ったり。

おわり

*1:田中宏(2013)『在日外国人 第三版 —法の壁、心の溝』岩波新書

HP3ぐらいで月イチの悪魔と戦っているときの記録(乱文)

あまりにも生理痛がひどすぎてこんな時間まで延々眠れないままベッドでじたばたしていた。新年早々ムシャクシャしながらこれを書いている。夕食後に痛み止めを飲まなかったわたしの判断ミスでしかないから誰のせいにもできない。でもわたしの体なんだからわたしの言うこと聞いてほしい。

高校ぐらいまでは2日目でもバスケットボールが出来るぐらいなんてことなかったのに年々ひどくなってきている。カフェイン摂りまくってるからっていうのもあるんだろうけど、さすがに痛すぎて朝を迎えそうになるなんてことはなくて途方に暮れてる。このあとふつうに仕事なの無理すぎない?

と言いながらも、幸運なことにわたしの会社には生理休暇なるものがあり、そして今の上司は女性なので言いにくいとかもないから休もうと思えば全然休める。けど、死んだようになってしまう1日がここまでほぼ毎月のように訪れていて、そのたびに休暇を取らせてもらっているので、なんだかさすがに気まずくなってきた今日この頃なわけで(唐突なEXITもどき)。婦人科サボり続けてるのがいけないのはわかってる。仲良しの友だちにも婦人科はやく行けって怒られてる。

小学校の頃に隔離された理科室か図工室で開講されたナプキン使用実践演習なんて履修してないはずなのに、婦人系の疾患や生理の基礎をある程度知っている奇跡みたいな友だち。変に気を遣ってくる感じが全然なくてむしろ生理が来てるとしか思えないみたいな気遣い*1をしてくれる。感謝。そして婦人科行くね。

そんな奇跡みたいな友だちはさすがにレアだけど、そもそもまわりに生理のことをタブー扱いするひとがほとんどいないので、たまに生理の話題NGなひとを見かけると結構びっくりする。シモの話っぽくて嫌なのかもしれない。そのひとの前ではなるべく話題にしないようにするけど、どこからアウトなんだろう。量と質の話するともうだめなのかな。関連領域もどこまで許されるのかわからない。親しくないうちはとりあえずそのあたりの話題は避けたらいいんだろうとは思うけども。

こないだまで同じチームに不妊治療をしているひとがいて、なんでもあっけらかんと話すひとだったので、上司とそのひとと3人で、不妊治療の話はもちろん、婦人科の話とか女性の病気の話とかをふつうの声量でしていたけれど、あれも嫌だなあって思ってたひとがいたのかもしれない。わたしはそういう事柄—シモっぽい何かという意味じゃなくてわたしのからだの健康に関する事柄—について、声をひそめずに話せるという環境にはじめて出会ったのでなんだかちょっとうれしかった。

ちなみに上司によればとにかく基礎体温を測る癖をつけるのが不調のサインを見つけたりするうえでいちばん手っ取り早いらしい。めんどくさくてやったことないけど、調べてみたらApple Watch基礎体温を自動で測ってくれる機能が去年の秋ぐらいにリリースされてた。めっちゃ便利そう。ダサいと思ってたけど買おうかな。

support.apple.com

やっと痛み止め効いてきたけど遅ぇ~~~!!朝~~~!(AM5:33)

シッダールタはママのの右脇から出てきたっていうヤバい逸話に合わせて経血も下からじゃなくて右脇から出てくれないかな。そうなったら生理とかもうほとんど外傷だし。ウケる。(ウケない)

おわり

*1:これはちょっと話を面白くしようとしてこう言ってみたけど、生理が来ない/来てないひとはまっとうな気遣いができないということを言いたいわけではないから気にしないでね。

新年あけました

ろくに2019年の振り返りもできないまま、友だちとテミンのコンサートDVDを見て、続けざまにコンサートの中継を見ていたら、いつのまにか2020年になっていた。テミンのコンサートの映像が美しすぎたせいで、せっかく買ってきたお寿司はほとんどノールックで口に詰め込むみたいにして食べた。イテミンはギルティ。最高に楽しい大晦日だった。(ちなみに友だちは年越し後びっくりするぐらい秒で寝た)

2019年を振り返ってみると、何かをひたすらに摂取し続けていた1年だった。気になる美術展やイベントがあれば直前に支度が面倒になってもなるべく足を運び、コンサートもライブもたくさん観に行ったし、お笑いにハマって足しげく西武新宿駅付近に通ったりもした(割にはいまだにバッシュとバティオスの区別がつかないことがある)。東京という場所柄、毎日のようにあちこちで何かしらのライブやコンサートや演劇やイベントの類が開催されていて、特に夏以降は浴びるようにそれらを摂取しつづけていたような気がする。田中功起の作品群、『カリギュラ』という戯曲、これからの毎日の中で頻繁に思い出すであろうそれらとの出会いもその中にあった。けれど、同時に、恐れていたフェミニズムの理論や歴史的背景についての本をちょこちょこと読んだり、アメリカに行って自分が無意識的に身に着けていたらしい「黒人」への差別意識に気が付いて絶望しそうになったりもした。台湾にいる友だちを訪ねてめちゃくちゃバカみたいな日焼けしたり、フジロックの豪雨で「雨はいつか止む」とかいう冗談みたいな悟りを開いたりもした。書き始めてみると全然足りなくてなんだかんだでめちゃくちゃ色んなことがあったんだなと我ながらしみじみしてしまう。

今日はライブ初めとして「空気階段no寄席」に行ってきた。ゾフィーセミナーのコントが見れておおはしゃぎだったし、かが屋は新ネタ持ってきたっぽくてびっくりした。2019年はかが屋に入れ込みすぎたので今年はちょっと控えめにしながら見守りたい、とか思ってたのに三が日にライブ行っちゃった。今年もどんどん売れてってくれ。

 

2020年も心身ともに健やかでごきげんな1年にするぞ。

おわり

自殺する男(菅田将暉主演・栗山民也演出「カリギュラ」)

わたしはこの戯曲についてあまり冷静に語ることができない。カリギュラはあの冬の夜を経験したもうひとりのわたしだった。あの狂気をわたしは知っている。それはわたしのなかに今もある純粋で理路整然とした狂気だ。

場面は貴族たちが話し合うシーンで始まる。妹ドリジュラの死をきっかけに姿を消したカリギュラの居場所やその失踪の理由について、彼らは心配そうにしかしどこか滑稽な会話を交わす。時間が経てば忘れるだろう。女ひとり死んだところで代わりの女はいくらでもいる。ある貴族は語る。わたしは昨年妻を亡くした。つらくないわけではないがもう忘れてしまった。人間はそういう風にできている。人は空いてしまった穴の存在そのものを忘却するように出来ている。 そう、それがあるべき喪のあり方だ。彼らの言うことは正しい。

貴族たちが去ったあと、舞台には静かな暗闇が訪れる。細く甲高い音が響くなか、刺すような赤色が舞台の奥に広がった暗闇を縦に切り裂く。そして、その向こう側から、真っ赤な光で染め上げられたカリギュラが、ひどく憔悴した様子でその姿を現す。音もなく世界の裂け目をゆっくりと押し広げ、こちら側に足を踏み入れる彼はぐったりとしていて、自分と自分以外とを隔てる境界線を確認するように一歩一歩を踏みしめる。ぼろ布のようになった衣服、静かな緊張と弛緩を繰り返す肉体は、省略された時間のうちに肉体を襲った様々な感情の存在を暗示する。彼の表情や肉体の動きはある種の諦念をたたえているようにも見える。

人は 死ぬ。人は 幸福ではない。(p.23)*1

ドリジュラの死によってカリギュラがたどりついたのは馬鹿馬鹿しいほどに単純明快な真理だった。そう、人は死ぬのだ。「死」とは何か。「死」を傍観する者にとってのそれは、耐え難い永遠の不在である。「死」という出来事は、いまこれを書いている、そして読んでいる「わたしたち」にとって遠い何かではない。「死」という言葉は難しくない。文字にするのも音声として発するのも簡単だ。その概念に触れるのも難しくない。毎日どこかで誰かが死んでいて、わたしたちはニュース等で文字で映像で音声で日常的にそれらを目にしている。それはとても身近にある何かだ。今この瞬間も世界のどこかで死にゆく死んでいる死んだ人がいる。その誰かが死んでも世界は変わったりはしない。

しかし、その死は間違いなく誰かの世界を一変させる。「死」というそのたった一音節が意味するところを確かな手触りを以て理解するためには、「死」という事象を通して、当たり前のように認識し受け入れている世界のありようについて、暴力的ともいえるほどの大きな変化を経験していなくてはならない。自ら拒絶することを許されず、また逃れることもままならない状況で、「死」という到底理解しがたい事実を喉元につきつけられてなお生きているという体験をしなければならない。それは空虚な単語、喉奥から発せられる音の波ではない。文字や映像や音声を媒介としたところで、世界が突然他人のようによそよそしく感じられるあの瞬間を知らない第三者は、「死」について本当の意味で理解することはできない。

人は絶望することがある、おれもそのことは知っていた。だが絶望ということばが何を意味するのか知らなかった。それはみんなと同じように魂の病だとばかり思っていた、でもそうじゃない。苦しむのは肉体だ。皮膚が痛む。胸が痛む。手足が痛む。頭の中は空っぽで、むかむかと吐き気がする。いちばん恐ろしいのは、口の中のこの味だ。血でも、死でも、熱でもない。そのすべてだ。舌を動かすだけで、なにもかも黒くなり人間がいやになる。(p.36) 

切れ味の悪い刃物でゆっくり刺されるような肉体の痛みは決して知識や言語には還元されえない。永遠の不在という事実による鋭くにぶい痛みをともなう傷跡をその肉体に刻み付けられたことのある人間のみが「死」の意味を理解することができる。

ドリジュラはもうこの世界にはいない。彼女が再びカリギュラが生きているこの世界に戻って来ることは決してない。「死」はそれがもう一度起きることはないという点でどこまでも決定的な出来事だ。

もしおれが月を手に入れていたら。もし愛だけで充分だったら、すべては変わっていただろう。(p.148)

カリギュラが欲したのは、永遠の「生」、つまり、その存在が失われるという恐怖もない確かな実在だったのかもしれない。だがそれは不可能だ。不可能。月を手に入れることも、死んだドリジュラを蘇らせることも、それは「ありえない」ことだ。だけどカリギュラはそれを欲した。

ドリジュラの「死」を経験したカリギュラにとって、世界はすでにその価値や意味を失っている。彼が生きているのは、すべての事物が意味を失った世界であり、そこに優劣はない。つまり、すべての事物の価値は等しく、言い換えれば、すべて等しく価値がない。国庫の財政と人間の命もまた等しく価値がなく、国庫の財政を優先するときに人間の命が重視される必然性はどこにもない。彼の理論に若いシピオンは「ありえません!」と叫ぶ。その叫びにカリギュラは自らが持つ強大な権力の正しい使い方に気づく。権力は不可能を可能にする。荒唐無稽な思いつきで人間の命よりも国庫の財政を優先させることができる。そのことに彼は気がついたのだ。

そして、カリギュラは決めた。万物からその価値や意味を剥奪することによって、価値や意味そのものがもはやその存在意義を失った状態を目指すことを。いずれ「死」によってすべてが無に帰す、「なにもない」状態になるのであれば、なにも「死」を迎えてからそのように振る舞う必要はない。最初から価値の優劣や事物の意味があるように振る舞うことをやめてしまえばいいのだ。それが彼にとっての自由であり、真実だった。彼はすべての人間がその真実の中で生きることを望んだ。

この時代が、おれの手から平等という贈り物を受け取る。すべては均等になり、地上に不可能がおとずれ、月がおれのものになる。そのときおれもたぶん姿を変え、おれと一緒に世界も姿を変える。人はもう死ぬことはなく! 幸福になるだろう。(p.38)

「死」はすべての人間に平等だ。カリギュラは生まれながらにして「死」を待つばかりの人間を世界に生み出し、その運命をもてあそぶかのように支配する神々を憎む。そして己の権力で「死」を支配することで神々に成り代わろうとする。おびただしい数の「死」を自分の前に、そして人々の前に積み重ねることによって、神を愚弄し、「死」そのものを無効化しようとする。

神々と肩を並べる方法はひとつしかない、おれはそのことを理解した。神々と同じだけ残酷になればいい。それだけのことだ。(p.90)

しかし、同時にそれは「生」の否定でもあった。 

他者の「死」によって際立つのは、どこまでも埋め合わせの効かない不在ばかりではない。「死」という事象に対峙している自分自身がまだ生きていることもまた、よりいっそう鮮明になる。「死」によって変容してしまったこの世界にもう意味などないのに、なおもそこで生きている自分に気がつく瞬間の戸惑い。

この静かな日曜日の朝、もっとも暗いさなかにあって。

いま、すこしずつ、深刻な(絶望的な)命題がわたしのなかで沸きおこってくる。これからは、わたしの人生にとっての意味とは何なのだろうか、と。*2

そうしてなおも生きている自分の前には横たわるのは、火を見るよりも明らかな「死」の到来。そのことを知りながら平然な顔をして生き続けるには「死」に対する恐怖、「死」が自らに訪れる瞬間への不安に対する忍耐が必要だ。「忍耐!」 彼は鏡の中にうつった彼自身がこの世界でまだ生きていることを許さない。彼は鏡の中に自分が自分を見つめかえす瞬間を認め、その視線にギョッとする。

そして、さらに絶望的なのは、「死」によって引き起こされたさまざまな種類の苦しみ―痛み、喪失感、空虚、怒り―さえ長くは続かないという事実だ。

愛する者が一日のうちに死ぬから人は苦しむとそう人は思っているが人間の本当の苦しみはそんな軽薄なものじゃない! 本当の苦しみは、苦悩もまた長続きしないという事実に気づくことだ。(p.145)

いつか自分はこの耐え難い肉体の痛みをも忘れてしまう。あれほどに破壊的だったにもかかわらず、「死」によってもたらされた永遠の不在に対する自らの感受性は日に日に薄れていく。鋭敏ではなくなっていく自分の感性への深い絶望。あの出来事を境として確かに世界はよそよそしい何かに変わってしまった、にもかかわらずその変容をいとも簡単に忘れてしまうことができる自分、あるいは人間そのものに絶望するのだ。

苦しみすら持続しないのなら、ただ過ぎゆくだけの時間、「死」を待つばかりの時間に耐えることが一体何になろう。

「人は死ぬ」という真理を追い求めて「死」を自らの支配下におき、世界の意味を混乱させたカリギュラは彼の理論の中で自由になる。しかし、そこにあったのはなお耐え難い「死」への恐怖だった。彼は怯える。己の犯した罪と迫りくる自身の死の気配に—それは彼自身が望んだものであるにも関わらず―「恐怖もまた持続しない」と震えるカリギュラの姿は痛ましく、切実だ。

俺はまだ生きている!(p.150)

ケレアが率いる貴族たちによってカリギュラは死ぬ。カリギュラは殺される。だがこれは周到に準備された「自殺」だ。ケレアによる陰謀があらかじめカリギュラに露見したとき、カリギュラはケレアを罰することはせず、反対に証拠隠滅を手伝いその陰謀の継続を望んだ。カリギュラの純粋な論理を理解しながらもそれを否定し拒絶したケレアは、残虐非道な暴君から国を救ったヒーローのように見える。しかし、本当のところはひとりの男の、カリギュラという男の自殺を幇助したにすぎない。

月だ、月がほしかった。(p.20)

カリギュラは、神を憎みながら、まさにその憎しみのために、自ら人間の運命を支配する不条理—それは「ありえない」何か―そのものに成り代わろうとした。己が持つ強大な権力を利用し、世界にある不可能を可能にしようとした。しかし、不可能を可能にすること、それは冒頭から過去形で語られる。果たしてこれは偶然だろうか。違う。これは最初から自殺の物語だったのだ。

 


太陽のうそつき ゆらゆら帝国

 

カリギュラ、彼について語りたいこと、語るべきことがあまりに多い。二重人格。セゾニアの肉体を通した存在確認。シピオンとの対話。カリギュラがシピオンに託したもの。ドラマトゥルギー。理解不可能性と葛藤(セゾニアと詩人)。セゾニアを殺す優しさ。共犯者としての観客。概念として解釈すること。現代社会。

それにしてもたどりついた先のなんと凡庸なこと。

*1:アルベール・カミュ(2008)『カリギュラ』ハヤカワ演劇文庫

*2:ロラン・バルト(2009)『喪の日記』みすず書房 p.84