11月末に観に行った「ねじまき鳥クロニクル」の感想を書かないまま2024年に突入しそう。仕事がめちゃくちゃすぎてもともと取っていたチケットを泣く泣く譲ったはいいものの、諦めきれずにチケットを探したらとんでもなく見やすい席を譲ってもらえた。物語の筋は相変わらず気持ち悪かった(ほめてるタイプの「気持ち悪い」ではない)けどダンサーさんの肉体がすべてを覆していった。ひとりものすごく好きな踊りをする方がいてインスタ探してフォローした。SNSこういうときありがたい。
2023年は去年に比べるとお芝居はたくさん見たけどコンサートやライブの類はすくなかった。ライブそんなにたくさん観に行かなかったな。おとぼけビ~バ~のライブがめちゃくちゃカッコよかった。好きだったお芝居は「おとこたち」。「ラビットホール」も悲しみに人を突き放すみたいで好きだった。理解しあえないこと、絶望、だからといってそれを浮世離れした悲劇のように扱わないこと。悲しみにその心とからだを砕かれてもなお平然と続く毎日を生きていかなければいけないという事実。そういうものをお涙頂戴系じゃない雰囲気で見せてくれたものだったからかもしれない。「おとこたち」ほんとに大好きだった。
今年はひょんなきっかけで3年くらい積んだままにしていた『呪われた部分』を読んだ。その前に『エロティシズム』を読んだ。今は『内的体験』を読んでる。このあと『有罪者』を読もうと思っている。カミュにハマったときほどの激しさではないけど、それでも読んでいて恍惚とするような、それでいて泣き出しそうになるようななんとも言えない感覚になるのは久しぶりだ。前から読みたいと思っていたボードリヤールのピンクの本もやっと読んだ(消費社会の神話と構造)。ボードリヤールはおもいきりバタイユを引き継いでるっぽいけど、バタイユのほうが人間への未練たらしさというか、執着のようなものを感じて好きだなと思った。
旧ジャニーズの関係で性暴力関連の本や映画もそこそこ読んだ。問題自体はなあなあのまま終わったことになりそうでもうあんまり目に入れたくない。私の好き嫌いの問題なので仕方ない。
バタイユ読んだのもあるだろうけど、自分の欲望を正面から見つめて目をそらさないこと、だからといって「自分が自らの欲望を直視できるのだということを称揚して悦に入る」ような状態に陥らないこと。このあたりを今年は延々と考えて煮詰めていったような気がする。一方的なものと双方向的なものとの違いはまだちゃんと考えられてないけど、他者と関係を築く時点でそれは領域を侵すことであり、いつでも暴力性を帯びる可能性がある。だからと言ってその暴力性を悪として排除したいわけでもない。その暴力をむしろ心地よいものと感じることは当たり前にあることだと思うから真正面から否定することはできない。というのが現在地?
倫理のあいまいさ(倫理的に正しくあることはそもそも不可能、そもそも倫理や道徳を設定するのは?)、人間のままならなさ(欲望へのあらがえなさ、その醜悪さとかわいらしさ)あたりも個人的にこねくりまわした主題だったような。言語に依存しまくって生きてきたし今もそうだけど、改めて言語の不完全さを感じつつ(言語は何かをあらわすときにそれを固定させると同時に常に何かを取りこぼしてしまう)、だけどそのなかでこの瞬間をなんとかして「伝える」にはどうすればいいのかを考えたりもした2023年。
こないだ信じられないぐらい高いコートを買った。お金って使うほど執着がなくなるの不思議だなあと思う。
おわり