みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

190201 日韓女性とフェミニズムの現在地@本屋Title

なかば無理やり仕事を放り投げて、『82年生まれ、キム・ジヨン』の訳者である斎藤真理子さんと、『私たちにはことばが必要だ』の訳者であるすんみさん、小山内園子さんのトークイベントに行ってきた。

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『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んですぐ『私たちにはことばが必要だ』を読んだ。手のなかにちょうど収まるくらいのサイズで、文章も難しくない。見た目もかわいいし、中身もだいたいのことは大切なことだからと思って、中学生の頃から仲良くしている友だちにクリスマスプレゼントとして送ったりもした。

けれど、『私たちにはことばが必要だ』を読んだときに、思わず眉をしかめてしまう箇所があった。わたしがカテゴリーなるものを嫌悪しすぎていることも、わたしが眉をしかめてしまった理由のひとつだとは思うが、その箇所の数十文字にわたしは疑問を感じながら、言語学者である筆者がそのように書いてしまった背景を推測したりしてひとまずは受け入れようとした。でもやっぱり、すこしうんざりして、かなしくなってしまった。

p.17「女性として生まれたわたしたちはすでに直観を持っています。」

女性として生まれていないけれど、後天的に女性となった人たちは「わたしたち」には含まれないのだろうか。そもそも、わたしたちは女性として生まれるのだろうか(これは反語。かのボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのである」と言っていた)。女性に生まれるとはどういうことだろうか(インターセックスの人たちはどうなる?)。そもそも女性とはだれのことを指しているのだろうか。どのようなひとを女性とわたしたちは言うのだろうか。

たった1行の記述にげんなりしただけで読み進めるのをやめてしまうのも惜しいと思い、最後まできちんと全部読んだ。ところどころ、やっぱり眉をしかめてしまう部分はあった。だけど、対話をする気のない相手に対して、無理にことばを尽くして理解してもらおうとする必要はない、というメッセージは、対話にまじめすぎる部分があるわたしにとっては、ある意味救いだった。(対話をする気のない相手もまた巻き込むことができる策を考える必要もやっぱりあるのではないか、というようなことを思わないではないけれど)

だけれど、これはほんとうに「女性」というカテゴリーに属する自分に違和感や困惑をおぼえたことがない人が書いたのだな、とも思った。フェミニズムはもちろん「女性に対する抑圧への抵抗」というところから始まっているのだと思うが、バトラーしか読んだことのないわたしからすると、フェミニズムとは「男性」と「女性」という二元論的な対立をことさら取り上げるというよりは、制度的な権威を疑うものであり、現存するカテゴリーそのものに対する疑いを呈するものであるように感じられる。だから、実は、「女性」と「男性」というのはそこまで意味をなさないのではないか、とすら考えている。権力の座についている人々がたまたま「男性」というラベルを貼ってもらえた人々である、というだけのことなのではないか、とか。

フェミニズムについて関心を持ってはいるが、これまでの歴史的な経緯はほとんど学んでいないので、上記の事柄については入門書を読む必要があるんだと思っている。だけど、違和感としてあるのは、フェミニズムは決して「女性」と「男性」、あるいは「被害者」と「加害者」との間の断絶を深める何かではないのに、なんとなく、今回のイベントでの語られ方や、日本での#me too運動は、フェミニズムと言いながらも、なぜか両者を分断する方向に進んでいるような気がすることだ。

イベントの後半に設けられた質問のコーナーでも、そこには「男性」と「女性」しかいないかのように、両者は対立する二項であることを前提に話が進んでいって、なんとなく居心地が悪かった。「男性の方も来ていますが、質問とかありませんか?」と、訳者のひとりが好意的にほほえんで会場を見まわしたとき、「見た目」でそのひとの「性*1」は簡単に判断できるということが不問の前提となっている状況に、猛烈な違和感をおぼえてしまった。クィア理論の講座に参加したときに、「見た目」からその人の「性」を言い当てることは不可能であり、それほど意味があるわけでもないという状況を経験したからなのかもしれないけど。

イベントの雰囲気はすごく素敵だったし、たくさん考えることもあったけれど、イベントのタイトルにあるような話があの場でなされたとはあんまり感じられなかった。うーん。

イベントのときに書き留めたいくつかのことばと、それについての現時点で考えていること&役に立ちそうな文献(have to readという意味で)。

・女性は家族から自由なのか? →Romantic Love Ideologyと関係がありそう。あと国家的な戦略とか政策とか。牟田和恵(1996)『戦略としての家族―近代日本の国民国家形成と女性』あたりを読めばいいのかな。

・兵役という人生に組み込まれた「暴力装置」 →何人もの韓国アイドルの兵役を見届けてきたけれど、「真男子(サンナムジャ)」ということばもあるように、韓国国内における兵役と「男性性」の獲得みたいなものって、わたしが思っているよりもずっとずっと強く結びついているのかもしれない。たぶんセジウィックの『男同士の絆』を読んだら多少は考えが深まる気がしてる。

 

『私たちにはことばが必要だ』には、「女性」だけではなく、何らかの抑圧や差別を受けているひとが、自分の精神を消耗しすぎないようにするためのTipsがたくさんつめこまれている。だけど、他者と自分は同じ人間ではないからそもそも理解しあうことは不可能であること、それでも自分ではない誰かを理解するために対話を試みることは必要であること、というような考えを大前提にしたうえで、それらのTipsを使うべきだとわたしは思う。今度書こうと思うけれど、おそらくわたしは、自分が「加害者」にならない保証はない(というかむしろ何らかにおいては加害者である)と考えている。そして、「加害者」になったとしても、なんらかの償いをすれば、許される世界であってほしいのだと思う。

違和感ばかりつづってしまったけれど、お正月に書いた関ジャニ∞クロニクルについての文章がびっくりするぐらいたくさんの人に読まれて、「生きづらそう」とか「考えすぎ」とか、わたしと対話を求めているわけではないことばを知らないひとから無遠慮に投げつけられたときに、問答無用で片っ端からスルーすることができたのは、この本を読んでいたからだった。その点に関しては、めちゃくちゃ実用的で、読んでおいてよかった本だったと思っている。

おわり

*1:「セックスは、つねにすでにジェンダーなのだ」というバトラーのことばに影響を受けすぎてジェンダーともセックスとも書くことができずに「性」とかいう謎の単語を使ってしまった。