みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

また春が来た

タイトルに「また」ってなんとなくつけちゃったの、間違いなく椎名林檎を思春期にたくさん聴いた影響だと思う。シドと白昼夢をノリノリで歌ってちょっと引かれた田舎の高校生、最近はカラオケに行く機会すらなくなった。

年が明けたなあと思っているうちに春になって、近所の公園の桜が見ごろを迎えていた。土日は混んでそうだからと平日の昼に散歩がてら足を運んだら思ってたよりも人がいて、そうだった、今は春休みの人も多いんだったとひとりごちて写真をバシバシ撮った。薄い青の空にほとんど白に近い淡いピンクの花が散ってる様子がどうしてこんなにも好きなのか。歩いてたら桜ががくからぼとぼと落ちて来るところがあってちょっとだけ怖かった。

毎日はあんまり変わり映えしないけれど今年は舞台を見に行く予定がどんどん入っていて楽しみ。早速今週は空気階段。地味にライブで1回しか見たことがなかったのでドキドキ。

最近読んだ『わたしたちが光の速さで進めないなら』という本がよかった。その中でも、ヒジンという宇宙飛行士が目的地とは異なる惑星に不時着して、そこにいる生命体と数十年かけて交流を深めていく物語がとても好きだった。ヒジンの世話をするのはルイという名前の生命体。ルイも含むかれらが発する音声言語は人間には周波数が高すぎて聴きとれず、文字言語も存在しないので意思疎通ができない。けれどもヒジンは長い長い時間をかけてかれらとコミュニケーションを取る方法をいくつか見つける。はじめて「おやすみ」とルイに伝えることができたとき、相手を大切に思う感情が深まるのを感じた、というヒジンの描写によく分からないけどわっと泣いてしまって自分でも不思議だった。

疎通し合うことなどありえないと思っていた理解不可能な他者と、わずかでも意思疎通ができること。図形の相似みたいにその文脈を現実世界に引っ張って来ると(同じ人間でも理解し合うことは不可能だという前提に立って)、ヒジンとルイが意思疎通する様子は、数多の規範や習慣を身につけたわたしたちが表面的で形式化されたやり取りを交わす様子ではなく、何か深いところでお互いに通じ合っている様子のように思えたのかもしれない。それか、シンプルに、あいさつという、単純ながらも相手を配慮することばを交わすこと自体が沁みてるのかもしれない。

コロナ禍になって、なのか、それとも言語交換の相手の影響なのか、相手へ配慮を目に見えるかたちで(言葉や行動)示すのって大切なんだなと思うようになった。会社のチームの中での立ち位置が変わったのもあるかもしれないけど、最初にそれを思ったのは言語交換の相手に対してだった。大真面目にこちらの質問に答えてくれる姿勢、大真面目におすすめの音楽や本を聴いたり読んだりしてくれておまけに感想まで言ってくれる姿勢。これまでもそういうことを誰かにしてもらった機会がなかったわけじゃないのに、そういった反応をしてもらえると確かに嬉しいのだなと改めて思ったのはやっぱりコロナ禍でひとりの人とのコミュニケーションに集中しやすい(コミュニケーションを頻繁に取る相手の絶対数が減った)ということもあったのかもしれない。そういうことがあって、会社の同僚とのやり取りも積極的に反応するようになった。人間こうやって少しずつ変わっていったりもするんだなーとか思う春。

今週いっぱいは雨降らないでいてほしいな。

おわり