みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

自殺する男(菅田将暉主演・栗山民也演出「カリギュラ」)

わたしはこの戯曲についてあまり冷静に語ることができない。カリギュラはあの冬の夜を経験したもうひとりのわたしだった。あの狂気をわたしは知っている。それはわたしのなかに今もある純粋で理路整然とした狂気だ。

場面は貴族たちが話し合うシーンで始まる。妹ドリジュラの死をきっかけに姿を消したカリギュラの居場所やその失踪の理由について、彼らは心配そうにしかしどこか滑稽な会話を交わす。時間が経てば忘れるだろう。女ひとり死んだところで代わりの女はいくらでもいる。ある貴族は語る。わたしは昨年妻を亡くした。つらくないわけではないがもう忘れてしまった。人間はそういう風にできている。人は空いてしまった穴の存在そのものを忘却するように出来ている。 そう、それがあるべき喪のあり方だ。彼らの言うことは正しい。

貴族たちが去ったあと、舞台には静かな暗闇が訪れる。細く甲高い音が響くなか、刺すような赤色が舞台の奥に広がった暗闇を縦に切り裂く。そして、その向こう側から、真っ赤な光で染め上げられたカリギュラが、ひどく憔悴した様子でその姿を現す。音もなく世界の裂け目をゆっくりと押し広げ、こちら側に足を踏み入れる彼はぐったりとしていて、自分と自分以外とを隔てる境界線を確認するように一歩一歩を踏みしめる。ぼろ布のようになった衣服、静かな緊張と弛緩を繰り返す肉体は、省略された時間のうちに肉体を襲った様々な感情の存在を暗示する。彼の表情や肉体の動きはある種の諦念をたたえているようにも見える。

人は 死ぬ。人は 幸福ではない。(p.23)*1

ドリジュラの死によってカリギュラがたどりついたのは馬鹿馬鹿しいほどに単純明快な真理だった。そう、人は死ぬのだ。「死」とは何か。「死」を傍観する者にとってのそれは、耐え難い永遠の不在である。「死」という出来事は、いまこれを書いている、そして読んでいる「わたしたち」にとって遠い何かではない。「死」という言葉は難しくない。文字にするのも音声として発するのも簡単だ。その概念に触れるのも難しくない。毎日どこかで誰かが死んでいて、わたしたちはニュース等で文字で映像で音声で日常的にそれらを目にしている。それはとても身近にある何かだ。今この瞬間も世界のどこかで死にゆく死んでいる死んだ人がいる。その誰かが死んでも世界は変わったりはしない。

しかし、その死は間違いなく誰かの世界を一変させる。「死」というそのたった一音節が意味するところを確かな手触りを以て理解するためには、「死」という事象を通して、当たり前のように認識し受け入れている世界のありようについて、暴力的ともいえるほどの大きな変化を経験していなくてはならない。自ら拒絶することを許されず、また逃れることもままならない状況で、「死」という到底理解しがたい事実を喉元につきつけられてなお生きているという体験をしなければならない。それは空虚な単語、喉奥から発せられる音の波ではない。文字や映像や音声を媒介としたところで、世界が突然他人のようによそよそしく感じられるあの瞬間を知らない第三者は、「死」について本当の意味で理解することはできない。

人は絶望することがある、おれもそのことは知っていた。だが絶望ということばが何を意味するのか知らなかった。それはみんなと同じように魂の病だとばかり思っていた、でもそうじゃない。苦しむのは肉体だ。皮膚が痛む。胸が痛む。手足が痛む。頭の中は空っぽで、むかむかと吐き気がする。いちばん恐ろしいのは、口の中のこの味だ。血でも、死でも、熱でもない。そのすべてだ。舌を動かすだけで、なにもかも黒くなり人間がいやになる。(p.36) 

切れ味の悪い刃物でゆっくり刺されるような肉体の痛みは決して知識や言語には還元されえない。永遠の不在という事実による鋭くにぶい痛みをともなう傷跡をその肉体に刻み付けられたことのある人間のみが「死」の意味を理解することができる。

ドリジュラはもうこの世界にはいない。彼女が再びカリギュラが生きているこの世界に戻って来ることは決してない。「死」はそれがもう一度起きることはないという点でどこまでも決定的な出来事だ。

もしおれが月を手に入れていたら。もし愛だけで充分だったら、すべては変わっていただろう。(p.148)

カリギュラが欲したのは、永遠の「生」、つまり、その存在が失われるという恐怖もない確かな実在だったのかもしれない。だがそれは不可能だ。不可能。月を手に入れることも、死んだドリジュラを蘇らせることも、それは「ありえない」ことだ。だけどカリギュラはそれを欲した。

ドリジュラの「死」を経験したカリギュラにとって、世界はすでにその価値や意味を失っている。彼が生きているのは、すべての事物が意味を失った世界であり、そこに優劣はない。つまり、すべての事物の価値は等しく、言い換えれば、すべて等しく価値がない。国庫の財政と人間の命もまた等しく価値がなく、国庫の財政を優先するときに人間の命が重視される必然性はどこにもない。彼の理論に若いシピオンは「ありえません!」と叫ぶ。その叫びにカリギュラは自らが持つ強大な権力の正しい使い方に気づく。権力は不可能を可能にする。荒唐無稽な思いつきで人間の命よりも国庫の財政を優先させることができる。そのことに彼は気がついたのだ。

そして、カリギュラは決めた。万物からその価値や意味を剥奪することによって、価値や意味そのものがもはやその存在意義を失った状態を目指すことを。いずれ「死」によってすべてが無に帰す、「なにもない」状態になるのであれば、なにも「死」を迎えてからそのように振る舞う必要はない。最初から価値の優劣や事物の意味があるように振る舞うことをやめてしまえばいいのだ。それが彼にとっての自由であり、真実だった。彼はすべての人間がその真実の中で生きることを望んだ。

この時代が、おれの手から平等という贈り物を受け取る。すべては均等になり、地上に不可能がおとずれ、月がおれのものになる。そのときおれもたぶん姿を変え、おれと一緒に世界も姿を変える。人はもう死ぬことはなく! 幸福になるだろう。(p.38)

「死」はすべての人間に平等だ。カリギュラは生まれながらにして「死」を待つばかりの人間を世界に生み出し、その運命をもてあそぶかのように支配する神々を憎む。そして己の権力で「死」を支配することで神々に成り代わろうとする。おびただしい数の「死」を自分の前に、そして人々の前に積み重ねることによって、神を愚弄し、「死」そのものを無効化しようとする。

神々と肩を並べる方法はひとつしかない、おれはそのことを理解した。神々と同じだけ残酷になればいい。それだけのことだ。(p.90)

しかし、同時にそれは「生」の否定でもあった。 

他者の「死」によって際立つのは、どこまでも埋め合わせの効かない不在ばかりではない。「死」という事象に対峙している自分自身がまだ生きていることもまた、よりいっそう鮮明になる。「死」によって変容してしまったこの世界にもう意味などないのに、なおもそこで生きている自分に気がつく瞬間の戸惑い。

この静かな日曜日の朝、もっとも暗いさなかにあって。

いま、すこしずつ、深刻な(絶望的な)命題がわたしのなかで沸きおこってくる。これからは、わたしの人生にとっての意味とは何なのだろうか、と。*2

そうしてなおも生きている自分の前には横たわるのは、火を見るよりも明らかな「死」の到来。そのことを知りながら平然な顔をして生き続けるには「死」に対する恐怖、「死」が自らに訪れる瞬間への不安に対する忍耐が必要だ。「忍耐!」 彼は鏡の中にうつった彼自身がこの世界でまだ生きていることを許さない。彼は鏡の中に自分が自分を見つめかえす瞬間を認め、その視線にギョッとする。

そして、さらに絶望的なのは、「死」によって引き起こされたさまざまな種類の苦しみ―痛み、喪失感、空虚、怒り―さえ長くは続かないという事実だ。

愛する者が一日のうちに死ぬから人は苦しむとそう人は思っているが人間の本当の苦しみはそんな軽薄なものじゃない! 本当の苦しみは、苦悩もまた長続きしないという事実に気づくことだ。(p.145)

いつか自分はこの耐え難い肉体の痛みをも忘れてしまう。あれほどに破壊的だったにもかかわらず、「死」によってもたらされた永遠の不在に対する自らの感受性は日に日に薄れていく。鋭敏ではなくなっていく自分の感性への深い絶望。あの出来事を境として確かに世界はよそよそしい何かに変わってしまった、にもかかわらずその変容をいとも簡単に忘れてしまうことができる自分、あるいは人間そのものに絶望するのだ。

苦しみすら持続しないのなら、ただ過ぎゆくだけの時間、「死」を待つばかりの時間に耐えることが一体何になろう。

「人は死ぬ」という真理を追い求めて「死」を自らの支配下におき、世界の意味を混乱させたカリギュラは彼の理論の中で自由になる。しかし、そこにあったのはなお耐え難い「死」への恐怖だった。彼は怯える。己の犯した罪と迫りくる自身の死の気配に—それは彼自身が望んだものであるにも関わらず―「恐怖もまた持続しない」と震えるカリギュラの姿は痛ましく、切実だ。

俺はまだ生きている!(p.150)

ケレアが率いる貴族たちによってカリギュラは死ぬ。カリギュラは殺される。だがこれは周到に準備された「自殺」だ。ケレアによる陰謀があらかじめカリギュラに露見したとき、カリギュラはケレアを罰することはせず、反対に証拠隠滅を手伝いその陰謀の継続を望んだ。カリギュラの純粋な論理を理解しながらもそれを否定し拒絶したケレアは、残虐非道な暴君から国を救ったヒーローのように見える。しかし、本当のところはひとりの男の、カリギュラという男の自殺を幇助したにすぎない。

月だ、月がほしかった。(p.20)

カリギュラは、神を憎みながら、まさにその憎しみのために、自ら人間の運命を支配する不条理—それは「ありえない」何か―そのものに成り代わろうとした。己が持つ強大な権力を利用し、世界にある不可能を可能にしようとした。しかし、不可能を可能にすること、それは冒頭から過去形で語られる。果たしてこれは偶然だろうか。違う。これは最初から自殺の物語だったのだ。

 


太陽のうそつき ゆらゆら帝国

 

カリギュラ、彼について語りたいこと、語るべきことがあまりに多い。二重人格。セゾニアの肉体を通した存在確認。シピオンとの対話。カリギュラがシピオンに託したもの。ドラマトゥルギー。理解不可能性と葛藤(セゾニアと詩人)。セゾニアを殺す優しさ。共犯者としての観客。概念として解釈すること。現代社会。

それにしてもたどりついた先のなんと凡庸なこと。

*1:アルベール・カミュ(2008)『カリギュラ』ハヤカワ演劇文庫

*2:ロラン・バルト(2009)『喪の日記』みすず書房 p.84