みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

たったひとりの「死」に向き合う『My Boy Jack』

まえだまえだの弟の方、前田旺志郎が出るてことでチケットを買って観に行ってきた。10月12日の夜公演。

激戦が続く第一次世界大戦。健康な体があるなら戦地に行くべしと声高に理想を語る父ラドヤードは、酷い近視ゆえに軍の規則で入隊出来ない息子を、人脈をつかって軍にねじ込む。母親<キャシー>と姉<エルシー>は、必死に不安を圧し殺しながら日々を暮らす。戦意高揚を謳っていた父親も、日が経つにつれて不安にさいなまれるようになる。ハンデがあるにもかかわらず必死に努力し将校になったジョン(ジャック)は、西部戦線へと出征する。厳格だが優しい父と、無償の愛を注ぐ母との幸せな家庭で育った彼は、銃弾が飛び交う戦場を体験する。ある朝、突撃ラッパが鳴り響く中、彼の中隊に突撃命令が下る。数時間の激闘が終わり兵士たちは次々と傷つきながら塹壕へと引き上げてくるが、そこにジャックの姿はなかった。

※<>の部分は管理人が追加。

「戦争」や「死」に対する態度の取り方が好きな作品だなと思った。肯定も否定もせず、ただ葛藤のなかにいる。

前半はあまり展開がなく、前日夜更かししていたこともあって少しだけ眠かった。それに引き換え後半(第2幕?)はすさまじかった。ジャックが率いた中隊に所属していた兵士マイケル・ポウ(佐川正和)がラドヤードの家を訪れ、当時見たことを話す場面。ポウがトラウマによる発作に苦しみ、時折えずきながら話す「彼が目にした光景」のリアリティに飲み込まれそうだった。

前半の最後では、自らの中隊と共に敵陣に突っ込もうとする戦地でのジャックが描かれた。ポウは中隊のなかでも比較的呑気で、一方で恐怖に敏感な人物として描かれていたように思う。豪雨の中、ジャックによる足の点検(「塹壕足」にならないようにするため、ジャックはしょっちゅう彼らの足を点検していた)のために靴下を脱ぎながら、農村出身のポウは彼が本来この時期にしていたはずの農作業に想いを馳せる。

農村的なものがいくらか牧歌的に描かれすぎてはしないか、という思いもなきにしはあらずだが、戦地でポウが素直に故郷を懐かしむ姿は、戦地から生還した後の、まるで人が変わったような彼の姿をいっそう際立たせる。ひとりではもはや立つことすらままならず、暗闇にいるだけで戦地の幻覚と幻聴を誘発され、タバコを吸ってなんとか気持ちを落ち着ける姿。

戦地で死んだ人は往々にして「名誉ある英雄」的なものに祭り上げられがちだが、ここではその様子がほとんどないことに安心した。母キャリーが、全体で見たときの犠牲者の数がどうこうを全く問題にせず、あくまで私たちにとってたったひとりの存在であるジャックがいなくなってしまったのだ、という深い悲しみを正面から抱きしめて傷つく姿になぜか慰められるような気持ちにもなった。どうしようもなかったことではあるけれど、戦地に赴こうとする彼をけしかけた(父)/身を挺してでも止めなかった(母)、ふたりが自分たちから「罪の意識」を切り離すことなく、それを抱えたままもだえる姿に、私が思う倫理だったり人間の不器用さだったりを見出したからかもしれない。自分たちが納得できる「自分のための物語」に息子を閉じ込めてしまうのではない姿。戦地で息子が感じたであろう痛みを想像しようとするキャリーの姿に、息子を戦地に赴かせた罪の意識に苛まれながらもそれを表現できずにいたラドヤードが床に転がって咆哮をあげるシーンに、思わずぼろぼろ泣いてしまった。

「死」は人の感情を簡単に動かしうる。だからこそ、その強力さに甘んじて、それを効果的な演出として安易に使う(かのように見える)作品が苦手だ。そういう類のものだったら嫌だなと思っていたが、良い意味で裏切られた。露悪的な意図があるならいざ知らず、通常の意味で「死」を扱う場合、ひとりの「死」にとことん向き合い、それを「乗り越えるべき何か」としない作品であれば(なぜならそれは「ともにある」ことはあっても決して「乗り越えられる」ものではないから)、嫌な気持ちにならずに観ることができるのかもしれない。

役者さんで個人的にうなったのは佐川正和さん。調べてみたら夜叉ヶ池にも出ていたらしい。西島さんは最初なんとも思ってなかったけど最後の年老いた男性の振る舞いがすごかった。単に腰を曲げているのではなく、むやみに片方の手がぶらぶらする感じとか。倉科カナさんはドラマで見るより舞台で見る方が好きだなと思った。

おわり