みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

1月14日の日記

3年とひと月足らず。私はもうすこしで彼を追い越してしまうのかと考えると妙な気分になってしまう。自身が死ぬことよりも老いや病に対してのほうが実感のある恐怖を感じていたけれど、同じように老いていけることは幸せなのかもしれない。同じ速さで年齢を重ねられること。追い越したくないよー。

2019年の終わりに観た「カリギュラ」がきっかけで、2020年はカミュをひと通り読んだ年だった。パンデミックのさなか、死亡者が「数字」として計上され読み上げられるニュースを見ながら、漠然と「死」について考えることも増えた。自分でも変な感覚だなと思うけれど、誰かがいなくなってしまうことには耐えられなくても、自分がいなくなってしまうことについては「解放」だと考えていることに気が付いた。常日頃から厭世的な傾向があるわけでもないし、むしろ熱血理想主義っぽい方だと思うけど、この世界から自分という存在がまるっといなくなってしまうことに対して、リアルな恐怖は感じない。気がしている。

カミュの著作のどれだったか、わたしたちは生まれた瞬間から死刑宣告を受けているのだ、というような文章があった。そうなんだよな。去年の年末のロンハーでハナコの菊田さんが唐突に「人っていつかは死ぬじゃないですか」と言って、だから仕事ばかりじゃなくて家族との時間とかを大事にしたほうが良いと思うという話を始めたときにもそのことを思い出した。だからって刹那的に生きているわけでもないし、将来のことであれこれ考えたりもするけど、なんだろう、一種の諦念がある感覚。諦念があると感じているだけで、いざ本当に三途の川を渡りますよとなったら嫌だ!怖い!となるのかもしれないけど。

自分の感じていることや世界と自分との関わりあいを解釈したり考えたりすることを止められないから、そういった事柄から「解放される」と感じるのだろうか。いろいろ思い浮かべてみて、3年前の冬にいったん「終わった」感覚があるのかもというところにたどり着いた。次の日の朝に窓を開けたときの空のよそよそしい青さに困惑して、彼がいなくても知らん顔して動き続ける世界に意味なんてあるのだろうか、なんてことを考えたりしていた。いったん終わってしまっているんだからもう1回終わろうが別に大したことじゃない。みたいな感覚から来てるのかもしれない。

特に憂鬱でもないのに憂鬱っぽいこと考えがち。いろんなことを言語化すると楽になるので言語化を止められないけど、過度な言語化もなんかよくない気がしてきた今日この頃。小学校3年生のときから日記書いてるから今さらもう無理か。(ちなみにアンネの日記に感化された)(単純)

冬はまだまだこれからなので心身ともにあったかく健康に過ごそう。

おわり