みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

雪の夜に書くようなことでもない

毎日、わたしの人生にとってほとんど意味をなさない労働をしている。これでお金がもらえるなんて、世の中奇妙なもんだなと思いながら、意味のない数字をつくりだしている。誰かを分かったようにさせるかもしれないけど、ほんとうは全く意味などない羅列をつくっている。

なにがきっかけなのかあまりはっきりしないけど、きょう、久しぶりに深呼吸がうまくできなくなった。修論を書いてたときぶりぐらいで、我ながらびっくり。いま自分がしている作業は、ゲームをクリアしていくような感覚はあっても、特に楽しいわけでも意味があると思えるわけでもない。ただ、自分のからだやこころに対しての負担はそれほどないと思っていたから、長い息をうまく吐ききれないほどのストレスになっていることには正直驚いた。ろくな食事もとらずに部屋中に紙と本を散らかして、毎日泣きそうになりながら延々と論文を書いていたときのほうが、体力や精神的な面では絶対苛酷だったのに、それと同じくらいのストレスを感じているらしい自分に、驚いている。

いまわたしがつくっている数字に、たぶんそんなに意味はない。でもそれがあの場所ではたしかに「役に立つ」何かとされていて、それをつくっているわたしは、それをつくることでお金をもらっている。みたいなことを考えてたら、「役に立つ」ってなんだろうというありふれた問いにたどり着いた。

「役に立つ」と言う/言われるとき、それは「客観的」な価値判断とされる。「役に立つ」ことは、まるで不変の真実のような何かみたいに扱われる。その一方で「役に立たない」とされた何かは切り捨てられる。でも、「役に立つ」か「役に立たない」かという判断がいつも変わらずに同じままでいる、なんてことは絶対にない。それは、判断する人、場面、コミュニティ、時代、その他もろもろによって変化する。たとえば、わたしにとって、わたしがかつて属していたコミュニティにおいて、哲学の実践やそれに関する知識はめちゃくちゃ役に立つものだったけど、全くそうではないと判断する人がいること、全くそうではないと判断する場所があることを、わたしは知っている。

そもそも「役に立つ」と「役に立たない」はどちらも物事の属性ではなくて、あまりうまくいえないけど、あくまでも「役に立つから~しよう」「役に立たないから~しよう」という、その次のステップみたいなところのために、対象に無遠慮に貼られるラベルなのかな、というような感じがする。

九大の講師の件とか、最近は研究者の自殺や生活の困窮についての話題をぽつぽつ見かけてしまうことがあって、そのたびに悲しい気持ちになってしまう。わたしのなかでは「役に立つ/立たない」とつながっているところがあって、きっと、とてつもない苦労をして己と向き合いながら新たな知見を生み出したであろう、いまのわたしが生み出している数字なんかよりよっぽど「役に立つ」(とわたしには思える)何かをこの世に生み出したであろう人たちが、無意味な数字の羅列を生むだけのわたしよりも少ない賃金しかもらえず、生活に困窮してしまうのはなぜなんだろうか、というようなことを考えてしまう。ついにはこの世界を捨てることを選ぶほどに追い詰められてしまうのは、どうしてなんだろうか、と考えてしまう。かれらはもうひとりのわたしで、わたしはかれらになりたかったけれど、かれらになるには、わたしの度胸と貯金、そして将来の見通しがすこし、いや、あまりにも足りなかった。(でも、いまは、かれらになるという選択を捨てる要素となった事柄すべてがわたしの責任だとは思わない。)

より多くの賃金をもらっているから、それが「役に立つ」何かなのだという等式はまったく成り立たない。そもそも「役に立つ/立たない」というのが、絶対的な判断基準ではないのだから、それは至極当たり前のことだとも思うけど。

お金の話になったのは、お金が評価と直結するように思えるからかな。急に文章が失速してきてる(眠い)。ちゃんとした長い文章を考えて書くのって大変だな。頭からこぼれる文章を拾うだけなら簡単だけど。

あしたも無意味な数字の羅列をつくる。そう書くとなんかやな感じだけど、別に自分の現状を嘆いているわけではない。でも、これは無意味だ、と、思えるままでいたい。

おわり