みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

舞台に見た不条理を現実に見る

今週はフルで在宅勤務だった。

東京に来てから東京の満員電車を嫌悪しているので、極端に早い時間に出勤したりして満員電車を避けてきた。去年、当時所属していたチームの上司が育児中ということもあって、はじめて在宅勤務を経験した。そして、家からでも出来る仕事をしているときに出勤する意味、わざわざ満員電車に乗って出勤する意味を全く理解することができなくなった。

今週、フルで在宅勤務をしてみて、ますます出勤する意味がわからなくなった。朝起きて、朝ご飯を食べて支度をして、ふらっと近所を散歩して、帰って来て軽いストレッチをして、ゆっくりコーヒーを入れて一息ついても、まだ始業開始までに時間がある。もちろん、家で仕事が出来る場合でも、あえて対面でやったほうがいいことがある場合もあるということも分かってはいる。チームメンバーとランチしたりすることでコミュニケーションが深まるというのもあるだろう。だけど、現在の状況では言わずもがな、そもそも東京みたいな、都市計画として交通が終わってる都市部(悪口)では、チームメンバー同士の定期的なコミュニケーションの機会は保ちながら、本当に対面でのやり取りが必要とか、現場でしかできないことがあるときだけ出勤する、みたいな仕事の仕方にもっと積極的に切り替えても良いんじゃないんだろうか。わたしが在宅勤務に適応できる人間だからそう考えるのもあるんだろうけど。

ただ、在宅勤務自体は苦ではないものの、家にこもることはわたしの心にそれなりの負担をかけているらしく、木曜日くらいから胸のあたりがもやもやして深呼吸がうまくできない。ジョンのことがあったときも同じような症状があったので、新型コロナへの不安とかストレスによるものなんだろうとは思うけど、外出自粛を求められる現在の状況をそれなりに楽しめている(苦に感じていない)部分もあるから、どうやったら症状が解消するのかがいまいち分からない。

なにより、東京都の感染者はどんどん増えているのに、国の打ち手がことごとく想像の範疇を超えてくるから、さらに心が疲れてしまう。わたしは幸運にも在宅勤務ができる職種で、現在のところは収入が絶たれる心配もない。家にこもることに多少のストレスは感じているものの、感染の不安をあまり感じることなく散歩したりすることもできる。それはすごく幸運なことだと思っている。けれど、一方で、省庁に勤めている友だちはもうずっと前からバカみたいな時間まで働いてすっかり疲弊していて、医療現場に勤務している友だちは現場のキャパオーバーや感染の不安でピリピリしはじめている。大阪にある大好きなレストランや、お世話になっている東京のお店たちは、経営が危うくなる中でなんとかこの状況を凌ごうとあれこれと工夫をしている。そんな状況のなかで、給食当番のときにつけていたような布マスク2枚が届くらしい。客足が激減したお店への休業補償はいつまで経っても出ないらしい。(東京都は独自で出したようだけれど)

数か月前に『カリギュラ』を観たとき、なんとなく、カリギュラという「暴君」によって統治される状況は今の日本と似ているなと思ったけれど、日に日にその感覚が強くなってきている。日本の為政者たちにとっての最重要事項は国家財政や国家の経済、または自分自身の権威であり、そこでは民衆の命は取るに足らない。何人かが命を落としたところで、彼らにとっては痛くもかゆくもないのだ。

いいか、馬鹿者、よく聞け。国庫が重要なときに、人の命は軽い。はっきりしている。おまえのように考える者は、みな、この道理をみとめてしかるべきだ。金がすべてだと思っている以上、人の命など何でもない、そうみなすべきではないのか。要するに私は論理に従うことに決めた。私には権力がある。論理がどれほど高くつくか、おもえたちはみることになるだろう。*1

自らの権力を自分の利己的なロマンを叶えるために使うこと。『カリギュラ』で、わたしは「死」という出来事に打ちのめされて「不条理」に成り代わろうとするカリギュラに、ある種の共感と愛着を抱いた。だけど、「死」という「不条理」に対する彼の絶望や哲学や思考ではなく、彼がとった実際の行動に焦点を当てるのであれば、彼がやっていたことはひどく自己中心的で、幼稚なことだったのかもしれない。

心が疲れる。

*1:p.31 アルベール・カミュカリギュラ』ハヤカワ演劇文庫