みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

ふた通りの解釈?『橋からの眺め』

だいたい月に1回くらいのペースで何かしらの舞台を観ている2023年。前半はパルコ通いをしていたけど今回はパルコプロデュースで久しぶりのプレイハウス。

弁護士アルフィエーリによって語られ、ニューヨーク・ブルックリンの労働者階級が住む波止場が舞台。イタリア系アメリカ人の港湾労働者エディは、妻のビアトリスと17歳になる最愛の姪キャサリンとの3人暮らし。エディは幼くして孤児となったキャサリンをひきとり、ひたすら姪の幸せを願って育ててきた。そこへ、ビアトリスの従兄弟マルコとロドルフォが同郷のシチリアから出稼ぎ目的で密入国してくる。最初は、エディも歓迎するが、キャサリンが色男ロドルフォに徐々にひかれていくようになると、彼らに対する態度が豹変する。そして、自分の気持ちを抑えきれなくなったエディがとった最後の手段は……?

橋からの眺め | PARCO STAGE -パルコステージ-

冒頭は説明調な部分が続いてなかなか入り込めず、アドレナリン大放出で興奮冷めやらずの作品ではなかったが、家に帰ってきて数時間経った今になってじわじわと平熱の興奮、しみじみとした快感、温泉つかったときみたいな「良かったなあ」という感情が押し寄せてきている。

最初の解釈はこれ。キャサリンへの過保護をこじらせたエディが、彼の基準に照らして「男らしくない」ロドルフォを「カマ野郎」と同性愛嫌悪(ホモフォビア)丸出しで忌み嫌い、同時にマルコの強靭な肉体を前に自分の「男らしさ」に不安を抱くことになり、彼が思う「男らしい自分」を守るために妻ビアトリスをはじめ周囲に対してどんどん粗暴になり態度も硬化していく。その先にある悲劇。

劇場で観ていたときは、エディはキャサリンを単なる姪としてではなくひとりの女性として見てしまっているがゆえに、ロドルフォに嫌な態度を取ったりキャサリンとロドルフォの結婚に反対したりする、ってことなんだろうな、とか、ロドルフォの「男らしくない」ふるまい(エディが思う「男らしい」ふるまいにそぐわないもの)に自身の「男性性」が脅かされると感じたがゆえに、エディはより厳格な「男性性」を求めてより横暴になっていっているのかな、と考えながら見ていた。

家に帰ってきてから浮かんだもうひとつの解釈。エディがキャサリンへの過保護をこじらせているのは変わらないが、彼の「男性性」への不安感はロドルフォの「男らしくない」ふるまいにではなく、ロドルフォに惹かれてしまう自分に対する戸惑いに起因するものだったら。あるべき「男らしさ」を内面化しているエディにとって、それは自分という存在の確かさ自体を大きく揺るがすくらいの衝撃があるはずだ。作品の中盤でビアトリスが口にする「いつ私を妻にしてくれるの?」(うろ覚え)というセリフ、ふたりは結婚はしているはずなので、それをエディと性交渉がないことの示唆だとすると矛盾もしない。

そう捉えると、エディがロドルフォを「カマ野郎!」と罵った直後になぜかロドルフォにキスした場面について、そのキスの意味もエディが漂わせていた強い情念もまるで異なったものに見えてくる。あのキスは屈辱を与えるためだったのか、それとも抑えきれなくなった情念だったのか。

最後にエディがマルコに殺されてしまう場面の意味も、単なる「弱者の間で起きた悲劇」といった解釈からもう少し広がりうるのかもしれない。異性愛主義と同性愛嫌悪を前提とした社会において、想定されるあるべき「男らしさ」をまとうマルコ*1に、そのあるべき「男らしさ」から脱落してしまったエディが殺される。それが示唆するもの。

もとのバージョンを知らないので、たまたま日本向けの演出では後者の解釈もできるということかもしれないが、これが頭に浮かんだときに「異性愛主義」の強固さを感じつつ、同時に、どちらの解釈をとっても「規定された男らしさ(それっぽい言葉で言うと「有害な男らしさ」になるのだろうか)と同性愛嫌悪によって引き起こされた悲劇」にたどり着いたのは面白かった。異なるレンズでその世界を見たときに、経るプロセスは異なるけれども行き先は同じだった、みたいな感じ。

音楽を聴いてて歌詞を読むときは習慣的と言っていいくらいクィアリーディング的な読み方をしがちなのに、長い作品となるとすぐにはそのモードに入らないのは自分でもなんだか意外だった。

役者さんは特に福地桃子さんが印象的だった。涼しけだけど艶もお茶目さもあって、そのうえ聞き取りやすい奇跡みたいな声と活舌。あと声に感情が乗っている感じ。過去作品ないかなと調べたらこれが初舞台らしくて驚いた。今年は舞台観に行くたびにすごいなあと思う俳優さんが増えていく。

おわり

*1:彼は妻と子を養うために出稼ぎに来ており、片手で重い椅子を持ち上げられるくらいの強靭な肉体・体力を持っている。