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観たもの、考えたこと、あれこれ

<記事訳>それは「フェミニスト論争」ではなく「ネット暴行」だった(ハンギョレ)

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2018年3月23日  イスンハンのSultan of the TV

アイリーンを取り巻くある暴力に関して
アイドルグループ「Red Velvet」のメンバー、アイリーンが休暇の間に読んだ本として『82年生まれ キムジヨン』を挙げ、ある男性たちはそれが「フェミニスト宣言」だとして怒りをあらわにした。これが始まりだと、今後もずっと被害意識を育てることだけを残すものだと、男性ファンが懸命に消費したおかげでRed Velvetが成功できたのに、これがファンにすることなのかと、真剣に結婚まで夢見た俺がバカだと。アイリーンが印刷されたフォトカードをハサミで切り、写真を火で燃やし、自分の怒りを知ってくれと絶叫するこの男性たちに向かう世間の反応はおおよそ「高い飯を食べてすることもない」という方へ集まっている。

選択的に怒りをぶちまけるみっともない男たち
この上なく常識的な反応である。この本を読んだ人はひとりやふたりなのか。今日の韓国を生きる女性たちが経験して来た大きくて小さな差別と女性嫌悪の経験を記録し、数多くの読者たちの共感を生んだ『82年生まれ キムジヨン』は、2016年10月の出版以後、4ヶ月だけで1万5000部、7ヶ月で10万部、10ヶ月で27万部に達し、シンドロームを呼び起こしたベストセラーである。文化放送「無限挑戦」でちらっと見えたユジェソクの机の上に置かれていた本も、防弾少年団のRM(Rap Monster)、俳優 パクシネ、モデル ハンへジン、アナウンサー ノホンチョル、少女時代 スヨンが深く感銘しながら読んだと明かした本もこの本だった。昨年、ノフェチャン正義党院内代表が大統領官邸昼食会に招待されたときに、ムンジェイン大統領へ贈った本も、クムテソプ共に民主党議員が自腹をはたいて国会議員全員に贈った本も『82年生まれ キムジヨン』だった。
国会議員たちがお互いに本を贈り合うときにも、有名な書店MDたちが推薦図書として『82年生まれ キムジヨン』を挙げたときにも、SBSがそのタイトルを借りて「SBSスペシャル」を制作し、JTBCが「ハンミョンフェ」で本を紹介したときにも、このような激しいアレルギー反応があったのだろうか? 私が見聞きしたからか、ムンジェイン大統領がフェミニスト大統領を自認して女性の人権について話したという理由で、彼に対する支持を撤回したり、SBSとJTBCのボイコットを宣言し、教保文庫不買活動を組織したという男性たちの話を聞いたことはない。ユジェソクの写真を破って燃やした男性がいたとか、防弾少年団を糾弾して組織的に悪意のコメントをつけていく男性たちがいたという話もまた聞いたことがない。結局、この怒れる男性たちは、見た目に手強くないと感じる若いガールズグループのメンバーに対してのみ選択的に怒っているのであるが、行き場をなくした怒りさえも、人を見極めながら、手強くない相手に対してのみ吐き出す行動は本当にみっともない。このみっともなさにうんざりした数多くの芸能メディアは、記者コラムを通してアイリーンの味方になり、ろくでもない男性たちを叱咤した。

ところが、いくつかのコラムは論調が少し奇妙だ。それらはアイリーンを擁護する論理で、アイリーンが『82年生 キムジヨン』を読んだと言っただけ、本に対してどのような立場なのか、感想も明らかにしたことがないという点を主張する。アイリーンが自らフェミニストだと明らかにしたこともないのに、本を読んだという言葉だけ取り上げて、それをフェミニスト宣言だと解釈してサイバーテロを加えることは不当な拡大解釈であるという話だ。裏返せば、次のようなロジックが登場する。もしもアイリーンが自分をフェミニストだと修飾したならば、男性たちが押し寄せて行って大騒ぎするのも仕方がない、というロジックである。「もしも、アイリーンが本を読んで、フェミニスト講演をしたりサイバー活動をするとすれば問題になるという状況。ただ本を1冊読んだだけなのに、そのせいで非難を受ける理由は全くない。」(『スポーツワールド』ユンギベク記者。「アイリーンは本も読むことができないのか」2018年3月19日)本を読んで感じたことがあれば、それについて講演することもあるが、それが問題になる理由は一体何なのか?

数ヶ月前、A-pinkのソンナウンが「Girls can do anytihng」(女性はどんなことでもできる)というフレーズが刻まれたスマートフォンケースが見えるように撮った写真をソーシャルメディアに投稿し、何人かの男性ファンたちから抗議を被ったときにも、ソンナウンを擁護する文章のうち少なくない数が、これと同じ論調を帯びていた。所属事務所は該当のケースがソンナウンを広告モデルとしたブランド「ZADIG&VOLTAIRE」が協賛してくれた製品だっただけだと釈明し、多くのマスコミはこれをとりあげて「時期外れのフェミニスト論争、知ってみると製品…」という内容のタイトルをつけて投稿した。事態の核心は、若い女性が少しでも自分の声をあげるような兆しが見えると抑圧しようとする男性優越論者たちの暴挙であるにもかかわらず、多くの記者のタイトルはこれを「フェミニストという話ではなかったのに、誤解を買って、思いがけずひどい目に遭ったハプニング」であるかのように記述した。まるでガールズグループのメンバーが本当に自分がフェミニストだと主張したなら、このようなひどい目に遭うのも仕方がないというかのように。

このようなことが起きるたびに「○○○、時期外れのフェミニスト論争」という表現を頑なに守るマスコミの態度は、フェミニストという単語に対して私たちの社会の認識レベルを絶えず後退させる。誰かが自分はフェミニストであるという信念を明らかにしても、それは論争になるのか? 「人は皮膚の色に関係なくみな尊厳をもって生まれてきたのであり、皮膚の色によって人を差別する習性を捨てることができない社会は、地道に改革の対象にならなければならない」という信念を非難する人々がいると仮定しよう。普通、私たちは非難を浴びせる者たちを「人種主義者」だと称し、彼らの行為を嫌悪発言[ヘイトスピーチ]であると糾弾するだろう。あえて「論争」という単語を使えば、論争を引き起こした人たちを問題の主語として「人種主義者嫌悪発言論争」と修飾するだろう、「時期外れの平等主義者論争」というふうには修飾しないだろう。しかし「人は性別に関係なくみなが尊厳をもって生まれてきたのであり、性別によって人を差別する習性を捨てることができない社会は、地道に改革の対象にならなければならない」という信念であるフェミニズムを非難する人々が集まり、ネット暴行[ネットいじめ:syberbullying]を加えたとき、そのことは何故、ネット暴行の被害を被った人々を主語として「○○○、時期外れのフェミニスト議論」というタイトルをつけて伝えられるのか?

マスコミはなぜ男性優越論者を代表するのか
このような報道は、記者やメディアの本意とは無関係に、記事に触れる若い女性に対してこのようなメッセージを送る。「フェミニスト」というアイデンティティ[正体性]を明らかにすれば「時期外れの論争」を経験することになるので身を入れないようにと、その上、フェニミニストという誤解をかうようなことが起きてはいけないので注意しろと。もちろん、私も言論界周辺をさまよって、半分くらいはこの業界に足をつっこんだ立場であるため、まさか記者個々人が若い女性読者たちを萎縮させようと悪意をもってそのような文章を書くとは考えていない。ただ、長い間そのようなやり方でタイトルを選んで記事を書くことがごく当たり前に固まった慣行であるから、そのような報道をしてきたのだろう。しかし、マスコミからこのような慣行を直さなければ、フェミニズムに対してさらに加えられる烙印(スティグマ)はなかなか消えないだろう。私たちは今からでも不当な攻撃とネット暴行を「論争」という単語で修飾して、あたかも攻撃とネット暴行はかれらなりの合理をもつ「主張」であるかのような錯覚を誘導することをやめなければならない。マスコミの対象となるべきことがあるとすれば、それは、フェミニズムに対する根拠のない怒りと、若い女性芸能人の発言権を自分の思うがままにすることができると信じる消費資本主義と男性優越主義の奇怪な結合であり、フェミニズムではない。

今からでも間違って使われた見出しを再び書き直すときだ。アイリーンは「時期外れのフェミニスト論争」を経験したのではなく「男性優越論主義者たちからネット暴行*1」をこうむった。ソンナウンもまた「時期外れのフェミニスト論争」を経験したのではなく「男性優越論主義者たからにネット暴行」をこうむったのである。彼女たちが本当にフェミニストなのかそうではないのかが問題の本質ではなく、若い女性芸能人が少しでも自分と違った声を上げようとすれば、無関係なフォトカードを破って証拠写真を撮り、写真に火をつけ、ソーシャルメディアアカウントへ押し寄せて悪質なコメントを浴びせる男性優越論者たちの暴力が問題の本質である。問題を解決する方法は、ひとえに問題の本質を正確に把握したときにだけ見つけられるのだ。))

 

*1:「ネットいじめ」では言葉が「軽い」ように感じられたので「暴行」と訳しています。

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そうかあれは「コミュニケーションとして行われる女の外見ジャッジ大会」!

タイトル強すぎたかな。

このあいだ見た企画に違和感をおぼえつつも大丈夫とスルーしていたけど今になってめちゃくちゃグロテスクさを感じてしまってすこし落ち込んでいる。好きなひとたちを好きじゃなくなる瞬間は怖いし悲しいから、そろそろ距離を取ったほうがいいのかもしれない。そのひとの生み出すものは好きでも、そのひとの倫理とか価値観が全然合わないとか、そういうことは珍しいことではないから、仕方のないことだとは分かっているのだけど。

アイドルでも作家でもバンドでもお笑い芸人でも、なんでもいいんだけど、メディアを通して何かしらの表現をしているひとのファンになるということは、そのひとの表現を好きになるということだけど、そのひとの思想や背景全てを受け入れる義務があるわけではない。一方で、自分の思い通りにはならないそのひとの思想や背景を否定するのも、基本的にはお門違いだ。(お正月の記事なんやってん、っていうツッコミが入ってしまうけどそのあたりの整合性が取れると思ってる理由はまだまとまってない)

好きなひとたちを好きじゃなくなるなんて悲しい状況にはもう懲りたから、「これはちょっとヤバいかも」というような出来事に出会ってしまったときは、好きなひとたちから少し距離を取るようにしている。いちばん分かりやすいのがバンドとかアイドル。曲だけ聴いて、インタビューは読まないしテレビも見ない。年に1、2回ライブやコンサートに足を運ぶ程度にとどめておく。それでもやっぱり好きじゃなくなってしまいそうな場合は、そうなってしまう前に、能動的に接点を持つことを避けるようにしている。存在だけは知っているけど、みたいな、ファンになる前の状況に戻す。実際には、前者でとどまる場合はほとんどなくて、おおむね後者にスライドしてしまう。さみしいけど、キツイ思いをしてまで娯楽に身を投じる余裕がわたしにはない。

そしてそれは、所詮わたしはコンテンツの消費者であるということをわたしに意識させる。言い換えれば、わたしはアイドルや作家やバンドやお笑い芸人をコンテンツとして認識していて、かれらをわたしと対等なひとりの人間としてみなしていないのかもしれない、というようなことをわたしに意識させる。かれらが提供するコンテンツから、そしてかれらそのものから、わたしはわたしの自由意志のもとにいつでもさようならができる。

閑話休題。(ここが中間地点です)

そもそもどこにもやもやしていたんだろうかと考えてみた。その結果としてのあのタイトル。

女としてジャッジされるのが苦手、と言うと語弊があるかもしれないが、性的な対象あるいは恋愛の対象として品定めされる気配や、品定めの結果を仲間内で共有される気配がとても苦手だ。だから、わたしが自分から積極的に距離を縮めようと思うのは、わたしを性的な対象として見ることがないだろう、あるいは、そういった視点を内面化していなさそうなひとたちだけに限られている傾向がある。けっこうめんどくさい性質。いきなり女というカテゴリーに入れられるのが苦手なのかもしれない。このひとはわたしをジャッジしない。だから安心していっしょにいられる。(解脱を試みようとはしているもののわたしも異性愛規範をバキバキに内面化しているのでそう思える相手は女性だったりゲイ男性だったりすることが多いかなと思ったけど、ちゃんと思い出してみると相手のセクシャリティとは意外と(?)関係がなかった。)そんなふうに考えていたことに気づいたのはけっこう最近だったけど、中学や高校ぐらいのときからそういう視線を忌避する感覚をなんとなく持っていたような気はしている。

あの日わたしが見たもの。言ってしまえば(男同士が仲良くなるきっかけという意味での)コミュニケーションとして行われる女の外見ジャッジ大会*1。そりゃ受け付けないわけだ。この答えにたどりつくまで1日ちょっとかかった。びっくりする*2

ジャッジ大会(ジャッジ大会?)が存在することも中学高校ぐらいの頃からなんとなく知っていたし、それに対して違和感や嫌な感覚も持っていたけれど、思い出してみると自分もジャッジする側として嬉々として大会に参加していた苦い記憶が蘇ってくる。名誉白人ならぬ名誉男性ってやつになりたかった時期。あんまり直視したくないけど避けて通るのもうしろめたい。

男が女をジャッジするのと、女が男をジャッジするの、なんとなく同列に扱ってはいけない気がしているけど、どうしてだろう。歴史的な背景がありそうだと感じているからかもしれない。同性の場合も内面化している場合とそうではない場合がありそうだし、ルッキズム云々についても言及してみたかったけど、どっちもややこしそうだからまた今度にしよう。

そういえば、この前受けた社内研修で、ある社員が初対面の外部講師の方を「美人講師」と不必要な形容詞つきで紹介していて、うわまじかこいつヤバいぞと思っていたら、そのあとフィードバックの時間?に別の社員からコメントでちゃんとボコボコにされていた。いわゆる中年のおじさんだったけど、献血ポスターの件でいま盛り上がってる町山さんみたいに延々と幼稚な反論をするようなこともなく素直に反省してて好感度爆上がりした。言えるし反省するしっていう弊社のこういうとこ好き。(話のオチどこ)

おわり

*1:だいたいここに書いてある。

wezz-y.com

*2:最初にドーン!と見せられたジャッジ大会への衝撃がデカかったのでこういう書きっぷりになっている。後半の流れで衝撃のいくらかは緩和された。

191001 ハムレット@東京グローブ座

はじめてのグローブ座。思ってたよりもずいぶんこぢんまりした劇場だった。いつも森之宮ピロティホールだったからかな。3階席の下手。めちゃくちゃ見やすいじゃん!と思ったのもつかの間、座ると舞台の3分の1くらいが見えなくなった。数年前に韓国の劇場でエリザベートを観たことがあったけれど、4階席ながら舞台全体がまるごと見えていたあの劇場のつくりはすごかったんだなとかそんなことを考えながら開演を待っていた。

ハムレットを観るのは初めてだった。シェイクスピア自体は高校生のときにひと通り読んだ。小難しい古典を面白いと思えるだけの頭がほしくて無理して読んでいた。当時は面白いと思わなかったが、大学の英文学史の講義で『ヴェニスの商人』を読んだときは、男装してパサーニオの手綱を完全に握るポーシャにドハマりした。『ハムレット』自体はその講義で大昔の映像を観た。古英語で読む機会もあったがあまりハマらなかった。意外と韻を踏む戯曲ぐらいの印象しか持っていなかった。

観劇前後で、すでにハムレットを観た演劇関係者による「菊池風磨ハムレットはすごかった」というコメントをたくさん見たが、わたし自身は物語そのものにあまり入り込めなかったのもあってか、悲劇というよりは喜劇というコンテクストでやや曲解しながらハムレットを観ていた。最近コントを見すぎて目の前で上演される物語すべてを喜劇として解釈する頭になってるのかもしれない。(最近足しげく劇場に通って見ているかが屋のコント、わたしにはそれが上演される場所や観る人が行う解釈の好みや慣れによって解釈が大きく変化しうる短い芝居に思えるが、彼らはあくまでそれをコントとして観客に提供するので、舞台上にて演劇という形式で語られる物語すべてをわたしはコントあるいは喜劇として、滑稽さやおかしみを含むなにかとして解釈しようとするクセがつきつつあるのかもしれない。みたいなこと。説明が無駄に長い。)

印象的だったのは回転する円形舞台という演出、そしてその舞台において唯一動かない中心への人物の配置。第一幕や第二幕では中心に王と王妃。どのシーンだったか記憶があいまいだが、不吉さを増す音楽と薄暗い照明、そのなかでひとり浮かびあがるように照らされる王、クローディアスの姿には鳥肌が立ったほどだった。第三幕でハムレットとレアティーズが一戦交えるシーンも、本人たちの演技はもちろんだが、舞台の使い方も相まって凄まじかった。剣を使う殺陣はものすごい体幹と体力を必要とするだろうにこんな4時間近くある舞台の最後にこんなシーンを持ってくる演出家はとんでもない鬼畜だ(あるいはそもそもシェイクスピアが悪いのか?)。

また、菊池風磨によるものなのか演出家や翻訳家によるものなのかはわからないが、ハムレットの狂気の表現も特別だった。その表現によって、菊池風磨ハムレットはわたしがなんとなく知っていたハムレットかとは少し人物像が違っているようにも思えた。ハムレットを復讐に駆り立てたのは、父を殺した伯父への激しい怒りや憎しみというよりむしろ、父を裏切って伯父と「寝た」母への拒絶とそれでもなお捨てることはできない母への愛情の間で板挟みになってしまったことによるものに見えた。そして、復讐という目的を果たすために自ら愛する人をも傷つけることを厭わないように見える、しかし本当は悩み苦しんでもいるハムレットの姿は、長時間にわたる公演のせいなのか、かすれてしまった菊池風磨の独特の声音もあいまってなんだか切なげだった。

第三幕の最後のシーン、ホレイシオの腕の中で息絶える白装束のハムレット。ホレイシオが後ろから覆いかぶさってハムレットを抱きしめる様はただただ美しかった。物語全体にただよっているミソジニーを削って完全ボーイズラブのお芝居に作り替えて再演してほしい。ものすごい冒涜。いや、シェイクスピアの時代にはそもそも女性は舞台に立っておらず、若い男性が女性役を演じていたらしいしシェイクスピア作品は古来よりおおむねボーイズラブだったのかもしれない。(?)

3階席だったからほかの役者の顔はほとんど見えなかったが、黄色いスーツを着たハムレットの学友を演じていた俳優がとても好きだった。動きやセリフがまるで本人のようで、役を演じている雰囲気が全然なかった(それが良いのかどうか分からないがわたしはとても好きだった)。

はじめてのハムレット、悪くなかった。

おわり

191004 コント村@ロフトワンプラス

発売と同時に売り切れたコント村に運よく参加。真夜中の歌舞伎町には混沌ということばがぴったりでまあ迫力がすごかった。

ザ・マミィ林田さん、ハナコ秋山さん、ゾフィー上田さん、かが屋加賀さん、に加えて、やさしいズのタイさん(第三部のみ)も登場。AM0:30に開演して、AM4:40頃に終演。

時間は目安。そしてこれは個人的な覚書。

 

第一部 0:30-1:40

キングオブコントファイナリストの赤いTシャツを着た加賀さん、上田さん&ふくちゃん、そして異なる彩度のえんじ色のシャツを着た秋山さんと林田さんが登場。ふくちゃんがスターすぎてそれ以外全員かすんでた(ふくちゃんは上田さんがとあるネタで用いた腹話術の人形)。女の子だと思ってたけどもしかして男の子なのかな。

開始早々キングオブコントのシークレット方式について「あれ誰がうれしいんですか?」という発言が(だれが言ったのかはとりあえず伏せてみる)。準決勝の2日目、準決勝が終わっていったん解散したあとに、決勝進出が決まった芸人はTBSに戻ることになっていて、TBSに戻るときにたまたまファンに出くわしてしまい嬉しさを隠すに隠せず神妙な表情で頷いてしまったという加賀さん。決勝に行くことができないと分かって、誰にも会わずに終わるやいなやすぐにTBSを飛び出し、気が付いたら新宿の喫茶店にいた、という林田さんの話もざくっと来た。それをすらすらと語る林田さんの姿が飄々としていて、なんだかちょっとさみしかった。

あとは、本番でかが屋のネタが視聴者に伝わらなかった話だったり、コントをやるのに最高の環境を整えてくれるキングオブコントのスタッフさんが最高すぎるという話だったりもしていた。2本目に用意していたネタのために「デカい暖炉を!」という注文をしてみたら、舞台の奥行の3分の2を占めるぐらいバカデカい暖炉がセットされていてびっくりしちゃったという上田さんの話も笑った。もっといろいろ話してたはずなのに全然覚えてないや。秋山さんと加賀さんがアイスカフェラテ飲んでたのは覚えてる(のはわたしが同じのを飲んでたから……)。

第二部 1:55-3:00

上田さんによるコント村の今後についてのプレゼン。めちゃくちゃ盛り上がってた。

①コント村についていた「(仮)」を外し、コントへの愛を語るシーズン1「発散」から実際にコントをやるシーズン2「始動」へ。

②コント村ライブツアーを通して、全国でコントの布教活動を行うとともに、コント村ライブへの出演者の単独に行くきっかけづくりとして機能する。

③コント村の村民(芸人)を増やす。

クラウドファンディングで資金調達を行い、オークラさんを呼んでコント番組をつくる。

⑤ジャンル別に分かれていたり、見る人の試聴履歴にあわせておすすめしてくれたりするコントのサブスクをつくる。

⑥コントだけで飯が食える世界にする。

ほんとは⑩まであったけど⑦以降は大喜利だったのでここまで。コント師がコントだけで食っていけるようになるためにはそもそもコントにお金を出す人の絶対数を増やす必要がある、したがって一般の人たちがコントにアクセスできるチャネルを増やす必要がある(と同時にそれは自分たちの表現の場を増やすことと同義でもある)というようなロジックでコント番組とかサブスク配信みたいな発想に至ったのかなとか思いながら聞いてた。サブスクのサジェスト機能の実装は難しそうというかコントのジャンル分けしようとしたら大変な戦争になりそう。

お笑いのライブに足を運ぶようになったのは本当にここ数か月のことだけど、全体的にチケットがびっくりするぐらい安いから、儲けがどうなってるのか個人的にけっこう気になっている。単独はまた別だろうけど高くても3000円程度だからほんとに衝撃的。お笑い界隈と言っても漫才、落語、コントとかで住みわけやそれぞれの縄張りみたいなものもあるだろうからひとくくりにはできないんだろうけど。平田オリザが、自身の劇団の本拠地として兵庫県豊岡市を選び、劇団を移したという話がちょっと前にあったけれど*1、その背景には、大学をつくることで演劇やアートマネジメントを行う人材育成を行うことだったり、劇場で定期公演することによって演劇を観に行く(習慣を持つ)観客を増やすことが目的として存在していて、コント村で上田さん熱く語っていたことも、それと似ている気がした。自分たちが芸能界で生き残るにはどうすればいいか、というミクロな視点ではなくて、自分たちが生活するコントあるいはお笑いという業界全体を盛り上げる必要がある、そうすれば自分たちや後輩たちが進む道もおのずと安定したものになってくる、というようなマクロの視点を持ってみんなで話しているのがすごく印象的だった。

第三部 3:10-4:40

ここでやさしいズのタイさんが参戦。もうタイさんがずっとハイボール飲んでたのしか覚えてない。質問コーナーもあったけど、とくに覚えているのは「他人のネタをずっとやるか、ずっとネタを書くか、どっちか選べと言われたらどっち?」という質問。全員が後者を選んでいたけどまあそうだろうなという感じ。ネタ書いてる人なんかみんなこだわり激つよ頑固野郎でしょ(偏見)。

キングオブコントの準決勝でジャルジャルが新ネタ2本下ろした話もしていた。ジャルジャルは本人たちもワケわかんなくなってて、ふたりで遊んでるうちにできたネタをそのままやっているらしい、と秋山さん。その話を聞いてすかさず加賀さんが「これから新幹線乗るときはずっとふたりで遊びます」と言っていて笑った。そのシチュエーション、かわいいけどちょっとこわいな。あと加賀さんがバキバキの目で準決勝新ネタ2本下ろしたらかっこいいですよねって上田さんに相談かなんかしに来たみたいな話もしてたような気がする。

最後の告知で秋山さんが今年のクリスマスにDVDが出ます!って話をしたら、唐突に加賀さんが女子高生みたいな感じで「え、ほんと!?イェーイ☆彡」ってハイタッチ求めてたのも最高だった。コント師みんな仲良しで見ててほのぼのする。

そんな感じのコント村。全国コント村ツアーもK-PRO児島さんからOKもらえてたので近々開催されちゃうかも? お笑いのライブほんと東京に集中しすぎだからぜひ地方をめぐってほしい。それか地方でも簡単に見れるように配信とかで対応してほしい。と、東京に住む地方出身者は思うのであった。

おわり

詩をつくる

日本語とのつきあいがそんなにないころから、なぜか日本語で詩をつくるのが好きだった。小学校3年生ぐらいだったかな。あのときは詩を書く用のノートがあって、母親がまわりのひとたちにわたしが書いた詩を見せては、うれしそうにしているのを覚えてる。中学生になってもずっと詩を書いてた。この頃になるといかにも思春期な、いま読み返したらうっかり倒れてしまうような詩ばかり書いてた。日記も小学校の頃からずっと書いてて、中学校を卒業するころには10冊を超えてた気がする。

目の前の情景だったりじぶんの気持ちとかそういうのをあらわすのにことばをこねくりまわすのがたぶんずっと好きだったんだなあ。

なんだかんだ高校生のときも文章を書いてたし、大学のときも文章を書いて本をつくってみたりしていた。いちばんハマっていたときには、趣味の読書ではない読書、じぶんのことばの幅を広げたいがためにする読書とかもしていた(そういうときはなぜか古典に走りがちだった)。書くことは続けていた。ただ、高校生くらいから、「ポエマー」ということばに気恥ずかしい何かが付随するように思える空気にのまれて、なんとなく詩は書かなくなった。

去年めちゃくちゃ暇を持て余したときに、司書をしている友だちから穂村弘を薦められ、『はじめての短歌』と『現実入門』を読んだ。親しんできた世界観がそこにはあり、どこか懐かしいような気持ちにもなった。穂村さんは短歌のひとだけれど、本の中で紹介されていた「起きているのに寝息」という又吉の句が狂おしいくらい好きで、しばらくそれをまるで自分がつくった句のように得意げに、まわりに紹介してまわっていた(作者を騙ったりはしてないのでご安心を)。

で、ついこないだ。社内で詩についておしゃべりするみたいなイベントがあった。終業後の、残業している社員もいるオフィスのど真ん中でじぶんがつくった歌が詠まれるのはちょっと今までにない経験だった。歌を考えている時間。ああでもない、こうでもないと、じぶんが描きたい感覚とか見えているものをぴったりと、過不足なくあらわしてしまうことばたちを探す過程はやっぱり楽しかった。むしあついオフィス街で信号待ちをしながらことばを探しているときに、あ、わたしって詩好きなんだなと思ったりした。

というわけで、再び詩をつくっている。(かが屋の影響で自由律俳句なる何かをちょこちょこ書き留めてはいたけれど)

おわり

190905&190906 キングオブコント準決勝@赤坂BLITS

せっかく行ってきたのでメモ。

# 1日目   2日目  
1 エンペラー 銀行強盗 カゲヤマ カジノ
2 マヂカルラブリー ラッパー や団
3 ジェラードン 深夜のオフィス ロングコートダディ バッテリー
4 ファイヤーサンダー 野球部 THE GREATEST HITS 映画館
5 コウテイ さんだる 嗜好
6 クロスバー直撃 新入社員 うるとらブギーズ サッカー中継
7 ななまがり 思い出しショック歌謡祭 イカすぜジョナサン コンサート
8 ザ・マミィ うーちゃん コロチキ じゃんけん
9 蛙亭 援助交際 そいつどいつ スッピン
10 わらふぢなるお バンジージャンプ サンシャイン クラスの不良
11 パーパー ベランダ 蛙亭 大阪の女
12 GAG 芸人の彼女 ゾフィー 探偵
13 藤崎マーケット 中の人 アイロンヘッド 旅館
14 かが屋 花束 やさしいズ 落ちた
15 相席スタート 元カノ ビスケットブラザーズ オークション
16 どぶろっく 農夫 ネルソンズ 野球部
17 チョコプラ クイズ番組 ジャルジャル 美容室
18 アイロンヘッド はよ寝え 空気階段 犯人
19 ゾフィー 謝罪会見 どぶろっく 農夫2
20 ジャルジャル 映画の撮影 ザ・マミィ 松の門
21 やさしいズ ストーカー パーパー リレー
22 コロチキ 反省 わらふぢなるお 電気屋
23 ネルソンズ 教室 チョコプラ カンフー
24 空気階段 タクシー コウテイ スパイ
25 そいつどいつ 脱出ゲーム 相席スタート 俯瞰で見る
26 カゲヤマ デート ジェラードン ライバル
27 THE GREATEST HITS 関西の強豪校 ファイアーサンダー 売れたら
28 さんだる 孤独のグルメ クロスバー直撃 修学旅行
29 ビスケットブラザーズ 知らない街 かが屋 親友
30 サンシャイン 絵描き歌 GAG クラス替え部
31 いかすぜジョナサン スナイパー エンペラー 隣人
32 ロングコートダディ これぐらいの棚 ななまがり 違いが分かる男
33 うるとらブギーズ 催眠術 藤崎マーケット クラブ
34 や団 喧嘩 マヂカルラブリー レシート

 

特に気になったコントだけ出演順に。

1日目  18:00-21:30

わらふぢなるおバンジージャンプ):最初から最後までずっと面白い。ボケ側のひともしかして経験者なのかなと思うぐらいの自然な演技でスゴイ。

GAG(芸人の彼女):1日目でダントツで好き。全体の展開も良かったし、途中で女芸人がリアルに直面してそうなことに言及してるのもめちゃくちゃ刺さった。

かが屋(花束):これを1日目に持ってきたの!?マジ!?ってなってしまってあんまり覚えてない(見るの4回目とかだったのでもう覚えてる)。加賀さん緊張してたな~!けどそこそこウケてたな~!冒頭の賀屋さん顔に力が入りすぎてたのかいつもより若干イケメンになってたせいで逆にネタのおもしろさ微減させてて笑ってしまった。

ゾフィー(謝罪会見):準々決勝でめちゃくちゃウケてたと聞いていたのでめちゃくちゃに期待しすぎた。けど、それでも面白かったのでゾフィーはスゴイ。(初見)

やさしいズ(ストーカー):脱力系のkemioみたいで好きだった。やさしいズはたぶんどのネタ見ても好きだなと思える気がする。
ネルソンズ(教室):うわこれ最悪のやつじゃんと思ったけど、トリオであることを生かしたネタで最初から最後までずっと面白かった。

空気階段(タクシー):あ、そっちじゃなくてこっちか!という感動。オチまで駆け抜けていく感じがめちゃくちゃ気持ちよかった。

さんだる(孤独のグルメ):テレビで見たことあるネタだったけど間と表情が絶妙で笑ってしまう。

ビスケットブラザーズ(知らない街):世界観がツボ。冒頭の独白みたいなセリフも良い。パフォーマンスアートみたいな趣さえある。

サンシャイン(絵描き歌):終盤にかけてライブみたいな盛り上がり方するのめちゃくちゃ良い。面白さよりか切なさ感じてしまうけど好き。

ロングコートダディ(これぐらいの棚):発想が天才。あと顔のパンチが強い。

わたしの個人的な倫理基準下回ってたコントが3本(展開発展させるところ間違えたり見せる場所間違えたりしたら燃えそう)。あとTHE GREATEST HITSのコントはスキルすごかったけどへたくそな関西弁一切笑えないからやめてほしい。(関西人の方言へのよくないこだわりが出てしまった)

 

2日目 12:30-16:50

や団(雨):今年のフジロックを経験したひとには特別刺さりそうなネタ。途中のひとことがめちゃくちゃツボだった。

ロングコートダディ(バッテリー):特別なことは何もしてないのにめちゃくちゃ面白い。発想が独特で今後もチラホラ見続けたいコンビ。

そいつどいつ(スッピン):2日目でいちばんウケてた。いわゆるめんどくさい女にやさしい世界観だったので安心した。オチが好き。松本さんこれからもがんばってな(たぶん良い人だから)。

蛙亭(大阪の女):女性のほうの演技力にウムムとなってしまいイマイチ没入できなかったけど生理用品のくだりはめちゃくちゃ笑った。

やさしいズ(落ちた):構成がめっちゃしっかりしてて永遠に笑ってた。個人的に2日目でいちばん好き。畳みかけるセリフの内容がめちゃくちゃ的確かつおもしろくて天才。

コウテイ(スパイ):1日目がエキセントリックすぎて苦手かもと思っていたけど落ち着いたコントでおもしろかったのでびっくり。ツッコミの人の顔めっちゃコロッケに似てる。

かが屋(親友):これなの!?ってなったけど、冒頭は前に見たときよりも面白くなってた。後半はセリフ減ったりなんだりでいろいろ変わってて若干分かりづらくなってたような。「親友」ってタイトルがあってはじめてこのコントは100%で伝わると思っているのでなんともいえない気持ちに。

GAG(クラス替え部):安定のおもしろさ。後半の一部が引っ掛かったけどそれ以外は終始何も考えずに笑えた。あとコンビの場合は3人参加型のほうが好きなんだなということに気づいた。

この日のエンペラーのネタは個人的にアウト。倫理基準とかじゃなくて発想が10年ぐらい前でつまんなかった。あと1日目のネタ見たときにどうかなと思ってたけど、やっぱりナチュラルな差別意識織り込まれてて1ミリも笑えんかった。

 

あとお笑い界隈に長くいるひとたちからめっちゃ疎まれそうなこと言うけど準決勝の審査員におじさんしかいなくてめちゃくちゃげんなりした。テレビなんてそういうもんだってわかってたけどプロデューサーのおじさん4人と放送作家のおじさん6人並ばれるとキツイ。とか言いながら決勝の審査員にもおじさんしかいないんだけど。(劇場行くと女性客のほうが全然多いのにね)

ちょっと前にマセキの某芸人がワーキャー女子じゃなくて先輩や男に笑ってほしいみたいな(本人としては悪気はないかもしれない)つぶやきをSNSでして一部のお客さんとかから顰蹙買いまくってたやつあったけど、そういう意識ってほんと悪意あるものとしてではなくマジでごくふつうにあるんだろうなと思ったり。お笑いに足突っ込んでまだ1年も経ってないけどたぶんそのうち思想が合わなさ過ぎてさようならみたいなことになるのかな。やだな~~。第7世代とか呼ばれてる人たちにはそういうのじゃない世界観で笑い取ってってほしい。

決勝のメンツがリークされてる通りだったらジャルジャルに優勝してほしいな。

おわり

夏、東京

海も花火大会も行かなかったけど、今年の夏はめちゃくちゃ夏って感じだった。

フジロックに行って修行かと思うぐらい豪雨に打たれ、サマソニに行って真夜中に酔っぱらって友だちと踊りまくった。翌日、高校のときの友だちに会うために帰省してみると、酔っぱらっておおはしゃぎしていた自分とはある意味対照的に、友だちはみな着々とライフステージなるものを登っていて、同じ高校生だったはずの「わたしたち」が今では異なった何者かになってしまっているようで、びっくりして、困惑した。結婚する、新居に引っ越した、彼氏ができた。おお、一般的にいう生活というやつっぽい、みたいなことを考える。そこに優劣がないことを分かってはいるし、両者を異なるもの、対照的なものとして扱うのが正しいあるいは適切だと言い切ってしまうこともわたしにはできない。

地に足をつけて生活している友人たちと、目の前の楽しいことを追い求めてふらふらしているわたし、みたいな。わたしの生活もべつにそこまで享楽的なものではないけど、したいことだけを好きなようにしているのは間違いがなくて、何かを我慢したりとかが、あんまりない。行きたい場所に行くし、食べたいものを食べる。付き合いたくない姑との何かがあるわけでもない。そういえば仲良くしていた片親仲間の友だちは子どもを産んで地元に家を買った。東京にいても同じように生活はしているはずなのに、どういえばいいのかわからないけれど、東京にいると、地元で見るような、地に足ついた生活めいたものがなんとなく見えづらくなるような気がする。

8月の終わりはかが屋が出るお笑いライブに足しげく通っていた。8月30日、渋谷のBunkamuraのすぐ近くにあるユーロライブという劇場(あるいは映画館)で、テアトロコントという、コントと芝居がごっちゃになって上演されるステージを見た。仕事を少しだけはやく抜けて、スマホで検索した通りに渋谷の地下を歩いた。雑多な人たちがたむろする路地を抜けて、ラブホテルのそばを通り、ユーロライブにたどりつく。Bunkamuraには行ったことがあったけど、その奥の、ユーロライブがある近辺には行ってみたことがなかった。絵を描き終えたあと、きれいな色がまじりあって汚くなったパレットみたいな路地の雰囲気に、なんとなく胸がざわざわした。坂を下りて大通りに出てみると、高級ブランド店のウィンドウがキラキラとまばゆい光を放っている。さっきまでわたしが歩いてきた道は夢だったのだろうか、と思うくらいに、雰囲気が違う。歩いているひとも、全然違う。

「汚いクツで自由に歩ける渋谷は最高です!」

その日見たゆうめいという劇団による「残暑」という演目に出てくる台詞。物語の語り手であり主人公でもある田中祐希という地方出身の青年が、かつて片思いをしていた女の子と、銀座で10年ぶりに再会する場面。彼を見るなり、彼女は彼のクツが汚いことに言及する。それに対して彼は言う。

「汚いクツで自由に歩ける渋谷は最高です!」

さっきまでラブホテルが立ち並ぶ路地を歩いていた自分を思い出す。そして、いま一緒に仕事をしている人たちのことを思い出す。清潔でこじゃれた洋服を着て、清潔な顔立ちをした人たち。客単価が狂ったお店で、自分とそう年齢が変わらない先輩が初任給の手取りほどもする家賃の部屋に引っ越した話を聞いたのはつい2日前のことだった。

東京。好きでも嫌いでもないのは変わらないけど、まわりを忘れて、自分の実現したいこととか、自分の夢を追いかけるとか、そういうことをするにはたぶん良い場所なんだろうなと思った。テアトロコントの前の日にかが屋が出ていた速いビームという小規模なライブは、どこか青春っぽい雰囲気がただよっていて、その楽しそうな感じがちょっとだけうらやましくなったりもした。成し遂げたいことや叶えたい夢があって東京に来たわけではないから、そんなことを思うんだろうか。

なんだか妙に辛気くさいかんじになっちゃったけど、夏は楽しかったよ。

おわり