みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

191001 ハムレット@東京グローブ座

はじめてのグローブ座。思ってたよりもずいぶんこぢんまりした劇場だった。いつも森之宮ピロティホールだったからかな。3階席の下手。めちゃくちゃ見やすいじゃん!と思ったのもつかの間、座ると舞台の3分の1くらいが見えなくなった。数年前に韓国の劇場でエリザベートを観たことがあったけれど、4階席ながら舞台全体がまるごと見えていたあの劇場のつくりはすごかったんだなとかそんなことを考えながら開演を待っていた。

ハムレットを観るのは初めてだった。シェイクスピア自体は高校生のときにひと通り読んだ。小難しい古典を面白いと思えるだけの頭がほしくて無理して読んでいた。当時は面白いと思わなかったが、大学の英文学史の講義で『ヴェニスの商人』を読んだときは、男装してパサーニオの手綱を完全に握るポーシャにドハマりした。『ハムレット』自体はその講義で大昔の映像を観た。古英語で読む機会もあったがあまりハマらなかった。意外と韻を踏む戯曲ぐらいの印象しか持っていなかった。

観劇前後で、すでにハムレットを観た演劇関係者による「菊池風磨ハムレットはすごかった」というコメントをたくさん見たが、わたし自身は物語そのものにあまり入り込めなかったのもあってか、悲劇というよりは喜劇というコンテクストでやや曲解しながらハムレットを観ていた。最近コントを見すぎて目の前で上演される物語すべてを喜劇として解釈する頭になってるのかもしれない。(最近足しげく劇場に通って見ているかが屋のコント、わたしにはそれが上演される場所や観る人が行う解釈の好みや慣れによって解釈が大きく変化しうる短い芝居に思えるが、彼らはあくまでそれをコントとして観客に提供するので、舞台上にて演劇という形式で語られる物語すべてをわたしはコントあるいは喜劇として、滑稽さやおかしみを含むなにかとして解釈しようとするクセがつきつつあるのかもしれない。みたいなこと。説明が無駄に長い。)

印象的だったのは回転する円形舞台という演出、そしてその舞台において唯一動かない中心への人物の配置。第一幕や第二幕では中心に王と王妃。どのシーンだったか記憶があいまいだが、不吉さを増す音楽と薄暗い照明、そのなかでひとり浮かびあがるように照らされる王、クローディアスの姿には鳥肌が立ったほどだった。第三幕でハムレットとレアティーズが一戦交えるシーンも、本人たちの演技はもちろんだが、舞台の使い方も相まって凄まじかった。剣を使う殺陣はものすごい体幹と体力を必要とするだろうにこんな4時間近くある舞台の最後にこんなシーンを持ってくる演出家はとんでもない鬼畜だ(あるいはそもそもシェイクスピアが悪いのか?)。

また、菊池風磨によるものなのか演出家や翻訳家によるものなのかはわからないが、ハムレットの狂気の表現も特別だった。その表現によって、菊池風磨ハムレットはわたしがなんとなく知っていたハムレットかとは少し人物像が違っているようにも思えた。ハムレットを復讐に駆り立てたのは、父を殺した伯父への激しい怒りや憎しみというよりむしろ、父を裏切って伯父と「寝た」母への拒絶とそれでもなお捨てることはできない母への愛情の間で板挟みになってしまったことによるものに見えた。そして、復讐という目的を果たすために自ら愛する人をも傷つけることを厭わないように見える、しかし本当は悩み苦しんでもいるハムレットの姿は、長時間にわたる公演のせいなのか、かすれてしまった菊池風磨の独特の声音もあいまってなんだか切なげだった。

第三幕の最後のシーン、ホレイシオの腕の中で息絶える白装束のハムレット。ホレイシオが後ろから覆いかぶさってハムレットを抱きしめる様はただただ美しかった。物語全体にただよっているミソジニーを削って完全ボーイズラブのお芝居に作り替えて再演してほしい。ものすごい冒涜。いや、シェイクスピアの時代にはそもそも女性は舞台に立っておらず、若い男性が女性役を演じていたらしいしシェイクスピア作品は古来よりおおむねボーイズラブだったのかもしれない。(?)

3階席だったからほかの役者の顔はほとんど見えなかったが、黄色いスーツを着たハムレットの学友を演じていた俳優がとても好きだった。動きやセリフがまるで本人のようで、役を演じている雰囲気が全然なかった(それが良いのかどうか分からないがわたしはとても好きだった)。

はじめてのハムレット、悪くなかった。

おわり