みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

20220114 だからビリーは東京で@東京芸術劇場

よくよく考えると舞台を見に行くのは2020年2月の『泣くロミオと怒るジュリエット』以来だった。新型コロナの感染者がちらほらと出てきはじめた頃で、千秋楽を迎えることなく終わってしまった作品。2年ぶり、東京に来て2回目の東京芸術劇場

www.geigeki.jp

主人公の大学生、石田凛太朗は『ビリー・エリオット』への感動と興奮から舞台役者を志して劇団ヨルノハテに入る。その劇団は分かりやすく行き詰っていて、みんなで次回公演の準備をしながらも、作品への熱量を持っているのは凛太朗ひとりだけのように見える。ほかの団員とさまざまな演出を試すなかで、凛太朗はきらきらした熱量をにじませながら演じることや台詞への戸惑いや喜びを表現する。その様子は、行き止まりに面しているように見える他の団員の存在もあってか、舞台上でとりわけ生き生きとしているようで、それがなぜか切なくもあった。

結局、コロナのせいで公演は中止になる。演劇を含むエンタメは「不要不急」とされ、凛太朗を含む団員たちもそれぞれにそれまでとは異なった生活を余儀なくされる。ビリー・エリオットに感化されて何者かになるはずだった凛太朗は一度も舞台に立つことなく、行き場を失ったままポンと空中に投げ出される。劇団にいたほかの団員たちの生活も一変し、それをきっかけとしてお互いの関係性も少しずつ変化していく。コロナ禍で仕事を失った人/仕事が増えた人、コロナ禍を誰かと共に生きている人/ひとりで生きている人、という、ごくありふれてはいるが重要な対比も鮮明に描かれる。

「東京では何者かになる途中でいられるんだ」

ウーバーイーツの配達中、車に撥ねられた凛太朗は唐突に台詞を理解する。結局中止になった公演で、脚本を書いた能見さんにそうじゃないんだよなあと何回かダメ出しをされていた台詞だった。役者から黒子に転じた団員たちに支えられて宙を舞う凛太朗を見ていたら、2年前に観た劇団ゆうめいの「残暑」に出てきた台詞が思い出された。

「汚いクツで歩ける東京は最高です」

役者を目指して東京に出てきた主人公が、初恋の人と銀座で食事したあとに放った独白。何者かになる途中の状態、端正でない身なりでもそれらしく見えて許されうる場所。何者かになりたい人にとって、先が見えない今この状態は苦しいのだろう。他人事のような言い方になってしまうのは、舞台上に提示される切実さと、わたしがこの2年で経験した閉塞感と共にある穏やかな静けさが少し違ったものに感じられるからだと思う。

いわゆるコロナ禍に入ってから今までほとんど出社せず自宅で仕事をしている。「ひとりってほんとうにつらいんだよ」と乃梨美が言っていたように、それはそれで大変なこともあったが、少なくとも仕事がなくなったり給料が減ったり、安全が脅かされることはなかった。仕事面ではむしろ評価されることが増えて昇進までした。だからこそ苦しくもあった。身近な友人たちと嬉しかったことを共有したいけれど、もしもそんな状況になかったらどうしようか、という逡巡。そんなことを考えられるわたしが置かれていた状況を、舞台上の彼ら、またはこの舞台を作り上げている人たちの状況と重ねて無邪気に共感しようとすることはできないと思った。

最終的に劇団は解散することになる。能見さんは、その前に、ぼくたちについての、ぼくたちのための舞台をやろうと言う。そして、作品の冒頭と同じシーンが再び演じられる。全てを経験した凛太朗と団員たちによる劇中劇としての再演。客席からもすすり泣く声が聞こえるのが印象的だった。

前に読んだアンリ・グイエの本に、舞台上で起こったことが「存在する」とみなされるのは、「知覚の問題」ではなく「判断の問題」で、その判断は「上演において劇行動を現前させる俳優の仕事であるだけでなく、観客の問題でもある*1」と書かれていた。とすれば、最後の劇中劇は何だったのだろうか。そもそもアンリ・グイエの文章は虚構が現実として立ち現れるために、という文脈で書かれたものだったと思うので、ここで引用するのもお門違いなのかもしれないが、観客なき演劇は演劇といえるのだろうか、という、たぶん演劇に関わる人たちがもう考え尽くしたであろう問いが浮かんだ。一方で、無観客配信も当たり前になった今、観客なしに自分たち(または一度も舞台に立つことのなかった凛太朗)のためだけに演じられるヨルノハテの作品と、収録用カメラの向こうにいる観客のために無人の劇場で演じられる作品たちとの違いは、厳密にどの部分にあると言えるのだろうかと考えてみたりもした。でも、そもそも役者になるはずだった凛太朗が役者をするための舞台だから、そんな問いを立てること自体がとんちんかんな行為なのかもしれない。

ちょっとした小ネタや演出もおもしろかったなー。オンラインでの集まりあるある(ミュートになってる、固まっちゃう)も、オンラインで対面せずにやることを、この劇場という物理的な場所で人と人が対面した状況でやること。凛太朗が宙を舞うところもそうだけど役者が急に黒子になったり、黒子なのかそこに「存在する」のかが分からなくなるシーン。ひとりひとりの独白から他の役者も交えた回想に切り替わるところ。人が変わるとこんなにも解釈が異なるのだと改めて思い知らされ、そしてそれは身に覚えのあるものでもあった。

アル中の父親とのやり取りはいまひとつ消化しきれなかったけれど、かつて暴力をふるっていた父親から逃げる凛太朗の様子は、一度染みついた恐怖が伝わってくるようで苦しかった。舞台装置も脚本もあるとはいえ、人間の身体からにじむ記憶みたいなものを身ひとつで見ている人に分からせる役者ってすごい。

あと、急に韓国語が出て来て面食らったりもした。アクセントがアレでうむむとなったり、恋人に使う「会いたい」だったら만나고 싶다より보고싶다のほうがしっくりくるんじゃ?いやいや韓国語しゃべってるのは日本人役だし気にしちゃだめなやつか?とかいろいろ考えたりしてしまって少し集中力を削がれてしまった。

そういえば開演前に近くで大学生らしき人たちが「うわ来てたんだ!久しぶり!」と挨拶を交わしていてなんだか懐かしかった。ピロティを通り過ぎるとき、銀杏並木の大通りを歩いてるとき、講義棟の階段をのぼっているとき、たまたま同期と出くわしてうわ!となる感じ。そういった偶然の再会もいまのご時世じゃあまりないからか、余計に恋しかった。

おわり

*1:アンリ・グイエ(1990)『演劇と存在』未来社 p.27