みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

詩をつくる

日本語とのつきあいがそんなにないころから、なぜか日本語で詩をつくるのが好きだった。小学校3年生ぐらいだったかな。あのときは詩を書く用のノートがあって、母親がまわりのひとたちにわたしが書いた詩を見せては、うれしそうにしているのを覚えてる。中学生になってもずっと詩を書いてた。この頃になるといかにも思春期な、いま読み返したらうっかり倒れてしまうような詩ばかり書いてた。日記も小学校の頃からずっと書いてて、中学校を卒業するころには10冊を超えてた気がする。

目の前の情景だったりじぶんの気持ちとかそういうのをあらわすのにことばをこねくりまわすのがたぶんずっと好きだったんだなあ。

なんだかんだ高校生のときも文章を書いてたし、大学のときも文章を書いて本をつくってみたりしていた。いちばんハマっていたときには、趣味の読書ではない読書、じぶんのことばの幅を広げたいがためにする読書とかもしていた(そういうときはなぜか古典に走りがちだった)。書くことは続けていた。ただ、高校生くらいから、「ポエマー」ということばに気恥ずかしい何かが付随するように思える空気にのまれて、なんとなく詩は書かなくなった。

去年めちゃくちゃ暇を持て余したときに、司書をしている友だちから穂村弘を薦められ、『はじめての短歌』と『現実入門』を読んだ。親しんできた世界観がそこにはあり、どこか懐かしいような気持ちにもなった。穂村さんは短歌のひとだけれど、本の中で紹介されていた「起きているのに寝息」という又吉の句が狂おしいくらい好きで、しばらくそれをまるで自分がつくった句のように得意げに、まわりに紹介してまわっていた(作者を騙ったりはしてないのでご安心を)。

で、ついこないだ。社内で詩についておしゃべりするみたいなイベントがあった。終業後の、残業している社員もいるオフィスのど真ん中でじぶんがつくった歌が詠まれるのはちょっと今までにない経験だった。歌を考えている時間。ああでもない、こうでもないと、じぶんが描きたい感覚とか見えているものをぴったりと、過不足なくあらわしてしまうことばたちを探す過程はやっぱり楽しかった。むしあついオフィス街で信号待ちをしながらことばを探しているときに、あ、わたしって詩好きなんだなと思ったりした。

というわけで、再び詩をつくっている。(かが屋の影響で自由律俳句なる何かをちょこちょこ書き留めてはいたけれど)

おわり