みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

ふた通りの解釈?『橋からの眺め』

だいたい月に1回くらいのペースで何かしらの舞台を観ている2023年。前半はパルコ通いをしていたけど今回はパルコプロデュースで久しぶりのプレイハウス。

弁護士アルフィエーリによって語られ、ニューヨーク・ブルックリンの労働者階級が住む波止場が舞台。イタリア系アメリカ人の港湾労働者エディは、妻のビアトリスと17歳になる最愛の姪キャサリンとの3人暮らし。エディは幼くして孤児となったキャサリンをひきとり、ひたすら姪の幸せを願って育ててきた。そこへ、ビアトリスの従兄弟マルコとロドルフォが同郷のシチリアから出稼ぎ目的で密入国してくる。最初は、エディも歓迎するが、キャサリンが色男ロドルフォに徐々にひかれていくようになると、彼らに対する態度が豹変する。そして、自分の気持ちを抑えきれなくなったエディがとった最後の手段は……?

橋からの眺め | PARCO STAGE -パルコステージ-

冒頭は説明調な部分が続いてなかなか入り込めず、アドレナリン大放出で興奮冷めやらずの作品ではなかったが、家に帰ってきて数時間経った今になってじわじわと平熱の興奮、しみじみとした快感、温泉つかったときみたいな「良かったなあ」という感情が押し寄せてきている。

最初の解釈はこれ。キャサリンへの過保護をこじらせたエディが、彼の基準に照らして「男らしくない」ロドルフォを「カマ野郎」と同性愛嫌悪(ホモフォビア)丸出しで忌み嫌い、同時にマルコの強靭な肉体を前に自分の「男らしさ」に不安を抱くことになり、彼が思う「男らしい自分」を守るために妻ビアトリスをはじめ周囲に対してどんどん粗暴になり態度も硬化していく。その先にある悲劇。

劇場で観ていたときは、エディはキャサリンを単なる姪としてではなくひとりの女性として見てしまっているがゆえに、ロドルフォに嫌な態度を取ったりキャサリンとロドルフォの結婚に反対したりする、ってことなんだろうな、とか、ロドルフォの「男らしくない」ふるまい(エディが思う「男らしい」ふるまいにそぐわないもの)に自身の「男性性」が脅かされると感じたがゆえに、エディはより厳格な「男性性」を求めてより横暴になっていっているのかな、と考えながら見ていた。

家に帰ってきてから浮かんだもうひとつの解釈。エディがキャサリンへの過保護をこじらせているのは変わらないが、彼の「男性性」への不安感はロドルフォの「男らしくない」ふるまいにではなく、ロドルフォに惹かれてしまう自分に対する戸惑いに起因するものだったら。あるべき「男らしさ」を内面化しているエディにとって、それは自分という存在の確かさ自体を大きく揺るがすくらいの衝撃があるはずだ。作品の中盤でビアトリスが口にする「いつ私を妻にしてくれるの?」(うろ覚え)というセリフ、ふたりは結婚はしているはずなので、それをエディと性交渉がないことの示唆だとすると矛盾もしない。

そう捉えると、エディがロドルフォを「カマ野郎!」と罵った直後になぜかロドルフォにキスした場面について、そのキスの意味もエディが漂わせていた強い情念もまるで異なったものに見えてくる。あのキスは屈辱を与えるためだったのか、それとも抑えきれなくなった情念だったのか。

最後にエディがマルコに殺されてしまう場面の意味も、単なる「弱者の間で起きた悲劇」といった解釈からもう少し広がりうるのかもしれない。異性愛主義と同性愛嫌悪を前提とした社会において、想定されるあるべき「男らしさ」をまとうマルコ*1に、そのあるべき「男らしさ」から脱落してしまったエディが殺される。それが示唆するもの。

もとのバージョンを知らないので、たまたま日本向けの演出では後者の解釈もできるということかもしれないが、これが頭に浮かんだときに「異性愛主義」の強固さを感じつつ、同時に、どちらの解釈をとっても「規定された男らしさ(それっぽい言葉で言うと「有害な男らしさ」になるのだろうか)と同性愛嫌悪によって引き起こされた悲劇」にたどり着いたのは面白かった。異なるレンズでその世界を見たときに、経るプロセスは異なるけれども行き先は同じだった、みたいな感じ。

音楽を聴いてて歌詞を読むときは習慣的と言っていいくらいクィアリーディング的な読み方をしがちなのに、長い作品となるとすぐにはそのモードに入らないのは自分でもなんだか意外だった。

役者さんは特に福地桃子さんが印象的だった。涼しけだけど艶もお茶目さもあって、そのうえ聞き取りやすい奇跡みたいな声と活舌。あと声に感情が乗っている感じ。過去作品ないかなと調べたらこれが初舞台らしくて驚いた。今年は舞台観に行くたびにすごいなあと思う俳優さんが増えていく。

おわり

*1:彼は妻と子を養うために出稼ぎに来ており、片手で重い椅子を持ち上げられるくらいの強靭な肉体・体力を持っている。

バービーの「身体」

『バービー』を観てきた。人間の「生」をその不完全さも含めてまるっと礼賛する映画だと思った。

公開前から各所でフェミニズム映画的な紹介のされ方をしていて、公開直後には『GANTZ』の作者が「こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの?*1」とツイートして燃えていた(燃やされていた感もある)ので、「フェミニズム」にあまり馴染みがない人にとってはうざったいとか刺激が強いと感じるような「啓蒙的な」映画なのだろうか?と勝手に思っていた。

確かにフェミニズムの要素はたくさんちりばめられた映画だったので、そういう意味では「フェミニズム映画」なのだろうが、フェミニズムに関する部分でいうといわゆる啓蒙的な映画というよりはフェミニズムに関わる要素を戯画化してあちこちを挑発しまくる映画に思えた。

冒頭、女の子たちが赤ちゃんの人形で「お母さんごっこ」をしているところに、ハイレグ水着のすらりとしたバービーが登場する。女の子たちはバービーに目を見張り、それまで手にしていた人形たちを地面にたたきつけて壊す。それまで「母になる」ことを前提とした遊びのための人形しか与えられなかった女の子たちにとっての「バービー誕生」の衝撃度や、必ずしも母になるとは限らない女の子たちに「母になる」ことを刷り込むその都合の良い遊び、その仕組み全体に対する激しい怒りがアイロニカルに表現される*2。赤ちゃんのかたちをした人形の頭が粉々になるさまに直感的にぎょっとするが、同時にいくらか爽快でスッとする*3場面でもあった。

軽快な音楽とともに、けばけばしく色鮮やかで無機質なバービーランドからお話は始まる。

セックスも出産も母親もないバービーランドは、ある意味では人形で遊ぶ子どもの想像力に沿ったものと言えるだろうが、かなりラディカルなヴィジョンに基づく世界でもある。バービーランドで女性たちが生き生きとしているのは、バービーたちが不死であり、セックスや子どもによって男性に縛られることがほぼ無いからだ。

映画『バービー』レビュー──作品と“バーベンハイマー”対応に見る「創造主の地位の簒奪」 | GQ JAPAN

観ているときはそこまで意識していなかったが、確かにバービーランドには「死」が存在しない。そもそも人形であるバービーとケンはどちらも性器がない体のつくりをしており、つまりそこには生殖もない。

ある日、ふと「死」について考えてしまったり他にも体に異変が生じたりしたバービーは、「死」などに思いを巡らせることのない元の「定番バービー」に戻るべく現実世界に飛び出す。そして、自分の持ち主であるグロリアとその娘サーシャを見つけて再びバービーランドに戻り、そこでケンが現実世界から持ち込んだ「(ひどく誇張され記号化された)家父長制」に洗脳されたほかのバービーたちを「目覚めさせ」、などの紆余曲折を経て(ここはだいぶはしょっている)、バービーは人間になりたいと望むようになる。

バービーはマテル社を創設しバービーの生みの親でもある女性*4ルースに「人間になっても良いか」と尋ね、ルースは自分の許しを請う必要はないと答える。ビリー・アイリッシュが歌う荘厳な雰囲気を漂わせるバラード曲に、まるで概念のような背景。ぽろりと涙をこぼすバービーが再び顔を上げると、ルースの姿はなくなっている。場面が切り替わり、グロリアとサーシャに応援されながら、バービーがやや緊張した面持ちで婦人科を訪れる。そこで映画は終わる。

バービーが婦人科を訪れたということは、「性器を手に入れた」ということで、つまりバービーは「生殖できる身体」を獲得し、不変のバービーランドから抜け出して「死」が存在する現実世界の一員になったのだ、と私は思った。また、冒頭の赤ちゃん人形叩き壊しの部分(女性を「母」なる存在に閉じ込めるものへの怒りを表現)と関連させると、最後の最後で「身体の生殖可能性」あるいは「産める身体を持つ」ことを肯定したということなのだろうか、とも考えた。

婦人科! 怖いですよね。緊張しますよね。作中でも言われていたけど、バービーにはヴァギナがないわけで、そのことが特に人間としての生を選んだあとで変わったという話もたぶんなかったはず。だとすると要するにバービーは一部のひとが「生物学的女性」と呼ぶものには分類されない存在なのでしょう(と、少なくとも私は想像しました)。性染色体だって持ってなさそう。でもバービーはその世界で人間の女性として生き、ときには婦人科で診てもらうようなことだって起きる。だから緊張しながらも婦人科に行く。「その感じ、知ってるよ! 緊張するよね? よくがんばった!」と言いたくなりました。

トランスっぽいバービー?(映画『バービー』) - あれこれ日記

この部分を読んだとき、自分の中に「(私が)女性(とみなす存在)」の「身体規格」とでも言うべきものが存在することに気づいてハッとした。婦人科に行く、すなわちその人には女性器/ヴァギナがあるもの、とどうやら私は考えているらしい。「女性として生活している人」の中には、生得的に女性器/ヴァギナや関連する臓器(子宮など)を持たない身体の人もいる、ということが思考から無意識のうちに抜け落ちていることに気づかされる。

映画のラストを最初に見たときの私は、バービーが「人間になること」を、「死」がある世界に足を踏み入れることだと解釈した。「死」があるということは、その裏返しである「生≒生殖」も存在する世界だ。その世界に参加するためには「生殖できる身体」が必要と考えた私は、「おそらく何かのきっかけでバービーの身体に性器が与えられたのだろう」として、性器がある「生殖できる身体」となったのでバービーは婦人科に行ったのだ、と解釈していた。

それはそれで不可能な解釈ではないのだろうが(存在しなかった描写を追加してるのは微妙かな?という気もするが)、現実世界に「(ジェンダー化された)女性の身体」の「規格」が存在するからといって、「規格」に合う身体であることを現実世界に足を踏み入れる前提とする必要はなかった。

バービーは「死」/「生≒生殖」が存在する現実世界で、「人間の女性」として生活することを選んだ。「人形」として生まれたバービーの身体に「性器」はない。しかし、あるいは、だからこそ、現実世界で「人間の女性」として生活するバービーは婦人科を訪れる。

「人形のバービーが人間になりたいと願い、実際にそれが叶う」という流れは他にも様々な解釈ができそうで色々考えてみたりもした。ひとりの女性が、他者から押し付けられる「完璧な女性像(=人形のバービー)」から抜け出し、欠点も老いも当然のものとして抱える「(身体を持つ)生身の人間」として生きることを選んだ。あるいは、思春期の少女が自らの「身体」が性的な視線にさらされまた評価される存在であることに気がつき、それらに困惑したり傷いたりしながらも、その身体を肯定しそれと共に生きることを受け入れる。みたいなのも個人的にしっくり来る*5

アメリカでは最後の「婦人科」の部分で笑いが起きた、という話を聞いて少し意外に思った。直前の感傷的な雰囲気を引きずってなのかもしれないが、人間の「生」そのものを称揚するシーンに感じられたからだ。

『バービー』をケンの解放という視点から読み解くこともできるだろうし、他の人の感想でこれは「創世記」なのだとする解釈も興味深かった*6(ふたつはつながっているようにも感じられる)。聖書では、まずアダムが作られ、その骨格をもとにおまけでイヴが作られるが、『バービー』(あるいはマテル社)ではまずバービーが作られ、そのおまけ、本当の意味での「付属品」としてケンが作られる。創世記になぞらえた解釈を読み漁るまで知らなかったのが、バービーは髪が植毛されている一方、ケンは長きにわたってプラスチックの髪のまま発売されていたらしい。その軽視のされ方は映画の中にも表れている。

観た直後は「なるほど?」程度だったのが、日を追うにつれて考えが膨らんで交差してこんがらがっていく、そんな感じの映画。反出生主義の人たちにとって、生死の概念がないバービーランドは理想郷足り得るのか、みたいなことも考えた。あと字幕がちょっとクセ強すぎるのと、教養があればあるほど楽しめるみたいな内容でそこはちと難しかったかもしれない。(冒頭が2001年宇宙の旅のオマージュですね、といろんなところで当たり前みたいに言われてたけど全然分からなかった)

書いてみて改めて、ここ最近の自分にとって「身体」がひとつのホットトピックなんだなと思ったりもした。

おわり

*1:「映画、バービー観た。最初の方はお洒落だし可愛いし笑いながら観てたけど後半になるにつれてだんだん冷めていった。なんか強烈なフェミニズム映画だった。男性を必要としない自立した女性のための映画。こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの?」(ご本人のツイートより)

*2:ただ、マテル社のバービー人形の発売だけが、子どもたちにそういった衝撃を与え、「母にならない/母でない女性像」を提示したとは思わない。この映画はあくまでマテル社の商品のひとつである「バービー」に関する映画だからだ。

*3:たぶんこれは私が持つ死生観や、「女は子を産む」ことを前提としたコミュニケーションに違和感を抱く人間であることとも関係していると思う。

*4:予習で見たネトフリではバービーの設計に携わった男性の話もあったが、映画ではそのへんがっつりスルーされていた。

www.netflix.com

*5:冒頭の赤ちゃん人形の破壊を「母性の否定」とし、最後の「婦人科に行く」を「妊娠・出産」と解釈して「母」や「産める身体」につなげるものはあまり理解できなかった。特に最後の婦人科。妊娠・出産以外でも婦人科は行くし……?

*6:

www.foxnews.com

アメリカの民主党共和党、およびそれに付随するメディアの分断にはそれほど詳しくないが、保守的FOXがこの映画を取り上げるのか、という新鮮な驚きがあった。聖書と重ねて解釈してるのはシンプルに興味深いのだが、キリスト教偏差値が低いので創世記のところしか分からない。残念。

仁川ペンタポートロックフェスティバル 2023

エルレストロークスが出る、チャンギハもThe Black SkirtsもRAD MUSEUMも、おまけになんと250もいる、ということでフジロックサマソニもやめて今年は仁川へ。3日間のうち金曜日と土曜日に参加。

インターネットを探してみても最近の情報があまりなく、サマソニみたいな都市型フェスの軽装で行くべきか、フジロックみたくガチンコ登山スタイルで行くべきか、迷いに迷って真ん中ぐらいの装備で行ったけどちょっと規模の大きい泉大津(シートエリアあり)って感じ。

メインのステージはふたつだけで、距離も近いので移動もすぐ。人もそんなに多くなくて、最後のアクトが終わった5分後には会場から出て15分後には地下鉄に乗れちゃってる、みたいな感じ。バスのほうはどうだったのか分からないけど、地下鉄は改札も全然混んでなくて快適だった。

フェス会場の最寄りは「松島月光祝祭公園(송도달빛축제공원)」駅。仁川空港からそのまま行くなら空港鉄道線の桂陽(ケヤン)駅から仁川1番線に乗り換え、ソウル市内からだと1番線の富平(プピョン)駅から仁川1番線に乗り換えっぽい*1。最寄り駅から会場までは歩いて10分しないくらいで、感覚的には海浜幕張駅から幕張メッセ行くときのあの感じ。海沿いの埋め立て地だからか雰囲気が似てる気がする。

 

よかったところ

・全体的に人が少ないので移動のストレスがない。

・女子トイレの数が多いしわりときれい。ステージの上手にトイレゾーンがあり、5個室+洗面所がセットになったコンテナが7か所、2日目からは9か所に増えていて並んだとしても3分くらいで入れる。(ただしトイレットペーパーは流せない仕様だったので夜にかけて大変なことになってる個室もあった)

・フェス会場出たところにコンビニが2つ、カフェ的なのが3店舗あるので便利。冷たいドリンク系が中で買えなくても外のカフェで似たやつは飲める。15時~17時は閉まってるが飲食店もある。

 

イマイチだったところ

・KB銀行がスポンサーについたせいで会場内での決済がKB関連(カードやアプリ)に限定され、韓国以外から来る人たちは中で何も買えないのでは?とハラハラする事態に。結局フード(アプリor現地にある機械を通して購入)は外国人専用ブースが設けられ、グッズとアルコール類はパスポートを見せればKB以外のカードでも決済できるようになっていたので事なきを得たが、スポンサーだからってそこまでやる?と逆に心象が悪くなるやつだった。

・ステージ名がスポンサー名のままで風情がない。(けどステージじゃないところで仁川空港のアトラクションがあったのは面白そうだった)

・人気のフードはアプリで当日分の予約がほぼ埋まってしまうので、買えるメニューが限られてしまう。来年どうなるんだろう。

・フェスに関する割と重要なお知らせが全部インスタの画像だけで公開される。せめて英語も用意してくれ。

・日傘/雨傘OKなので、そこそこ前の方で日傘さしながら見てる人がいる。雨降ったらやばそう。

 

その他

大漁旗みたいなのを振る文化がある。個人的に好きだったのは「愛」と「退社」。出てるアーティストのロゴや名前の旗を持ってる人ももちろんいる。

IDIOTAPEで旗振りまくる人たち

・帽子をかぶっている人が少なくてびっくりする。あと短パンにタイツみたいな日本のフェスにいっぱいいるスタイルがほぼいない。

・特に夜はいちゃいちゃしているカップルが多いので場所選びをミスると大変。

・持ち込み禁止のものが結構ある。自分たちは買ったばかりのお菓子、飲みかけの水を没収された(開封してある飲み物は駄目らしい)。隣で缶のコーラを没収されてる人もいた。会場内で果物やお菓子をつめたタッパーを持って来てる人を結構見たので、お菓子は包装されてるとだめ、とかだったのかもしれない。(事前にインスタで公開されるお知らせには目を頑張って目を通そう…)

 

決済問題はだいぶハラハラしたけど、ビール買うところは1回目パスポート見せたらあとはクレカだけで決済してくれるようになっていた。全体の方針が変わったのか、スタッフが途中から面倒になったのかもしれない。

1日目はgeorge→キムユナ→チャンギハ→ELLEGARDENエルレを見に来た人まるだし。紫雨林(ジャウリム)にいたキムユナさんのステージが圧巻だった。鬼束ちひろ的な殺気だった雰囲気を漂わせながら、とにかくめっちゃ歌がうまい。エルレはもう感覚がバグっていて分からない。

2日目はSURL→SNAKE CHICKEN SOUP→おとぼけビ~バ~→Silica Gel→RAD MUSEUM→The Black Skirts→IDIOTAPE→The Strokes→250と大忙しで足腰がおしまいに。とりあえず見とくか!ぐらいのテンションで見に行ったおとぼけビ~バ~が最高に格好良くて愛してしまった。日本でも絶対ライブ行きたい。セソニョンのライブ見るとソユンガチ恋になってしまうのだけどその感覚と似てる。念願のストロークス、聴き込んでるわりにメンバーの誰の名前も分からないんだけどボーカルの歌声、その絶妙なゆがみ方にここまで心奪われることってあるのかよ!と恍惚としながら聴いた。そんで最後の250はひたすら好き勝手に踊りまくる時間。すぐ近くにいたカップルがこれでもかってぐらい変な振り付けを編み出しては踊っていて、そばで見ていてそれがとても微笑ましくて楽しかった。

あと250の途中で出てきた人(불싸조(Bulssazo)のハン・サンチョル)が鳴らすギターがめちゃめちゃに格好良くて思わず最前近くまで走って見に行ってしまった。こんなはっきりと「格好良い」ことが分かることってあるんだ!?ってびっくりするぐらい格好良かった。

youtu.be

おわり

「大人」になること、「アイドル」との付き合い方

気が付けば今年も半分が過ぎた。先月は久しぶりに海外に行った。以前からたびたび訪れている馴染み深い場所だったので新鮮味はなかったけれど、やはり日本の外に出ると私を規定するさまざまなしがらみのようなものから解放される気がして楽しかった。

今年はやたらとお芝居を観に行っている。今のところ「おとこたち」がいちばん好きで、観ているあいだ奇妙な興奮状態に陥って脳も目もずっとギンギンだった。タイトルこそ「おとこたち」でメインキャストも男性だが、大原櫻子さん演じる純子がぶっ刺さって鳥肌が止まらなかった。「いつかはひとりぼっちになるらしい ほんとかよ 信じられないよ」という歌詞に感じる絶望と希望。

ここんとこでいうと、テレビを全然見なくなった。というより見れなくなった。

ざっくり言えば、3月からずっとぐずぐずに煮詰まっているジャニー喜多川の性加害問題*1のため。ジャニーズ性加害問題、という表現が一般的だろうか。所属タレントが何かしでかしたわけではないので彼らにはいくらか申し訳ない気持ちになるが、テレビをつけていて所属タレントが出演していると、「ジャニーズ事務所は先代の性加害について適切と思える対応を取っていないのに、どうして?」と、なんだか空恐ろしくなってしまい、ええいとテレビを消してしまう。最初のころは他のチャンネルに変えたりしていたが、チャンネルを変えても異なる所属タレントが出演していることが多いので(なまじ誰がジャニーズなのかがある程度分かるだけに余計厄介)最近ではテレビそのものをつけなくなってしまった。

なぜこんなに「食らってしまっている」のかは自分でもよく分からない。反応がいくらか過剰なような気がしなくもない。被害を訴える人たちのインタビューや性加害に関する続報が出るたびに新聞社の有料会員になってまで記事を読んだり、自分で関連する映画や本を探して理解に努めようとしたりしているが、そうやって積極的に経緯を詳しく追いかけていることも、いくらか行き過ぎているように感じられる。そう感じることが正しいのかも分からない。他者に起きた出来事なのに、なぜ私がこれほどまでに傷ついているんだろう。それも分からない。ジャニー喜多川が行った行為が、ハラスメントという社会に遍在するごく一般的な問題と容易に関連させることができ、さらにそれらが「未成年」に対して数十年にわたって行われてきたという事実があまりに衝撃だからだろうか。

ファンコミュニティが鈍い反応しか示さないことも、ハラスメントに加担する悪気のない人たちを見るようで恐ろしく不気味だ。BBC報道があったくらいから社長の謝罪後くらいまでは、自分も含めこれまでこの出来事を無視してきた事実を受け止めて「ファンこそ事務所に対して声をあげるべきでは」と考えていたが、変わらず沈黙する/声を上げた被害者やファンを黙らせようとするファンが大多数を占める様子を見るとそれはどうやら無理らしいことを悟った。「アイドル」を人間と思わない方が精神的に楽なのは理解できる。反対に、彼らを人間だと捉えているからこそ、「本人からの発言がないことには動けない(「公式を待とう」)」と思っているファンもいると思う。どちらにしろ沈黙しているので見分けはつかないが。

性被害にあったかどうかにかかわらず、所属/元所属タレントはその構造の中にいたという意味で「被害者」ではあるとは思いつつも、長年にわたる性加害を見過ごしてきた「傍観者」という立ち位置に置かれてしまう結果にもなっているので、大雑把に「罪がない」とされること自体には懐疑的であると同時に、その構造を生み出したのは何だったのかについても考えてしまう。性加害をなかったもの、または芸能界には当然のもの、いちゴシップに過ぎないなどとして受け流したメディア、ファン、大衆、と、濃淡はあれども同じ「傍観者」たちの問題。

(合理的思考も職業倫理もない日本企業あるあるの権威主義もあいまって、日本の音楽/芸能全体が「ご恩とご縁(by山下達郎)」で成り立っていたがために悪習を断ち切れなかったことに端を発する問題ととらえれば、音楽/芸能の領域に限らずあらゆる産業に遍在していそうだと思わなくもないが、その論点は私には手が余るので経済紙の記者あたりに考えてみてほしい。)

年始にある女性アイドルグループが公開したMVを見て、アイドル産業そのものへの嫌悪感をつのらせていた矢先の出来事だったから、というのもあるんだろうか。同世代の友人らが子どもを授かったり会社で役職を得たり、自分も会社で誰かの責任を取ったり(おこがましいかもしれないが)誰かを守る立場になってきたり、という変化の中に私がいるのもあるのかもしれない。「大人」につきまとう様々な責任から逃げ出す先として「アイドル」の存在があるなら、それにいつまでも没頭したり、それを「救い」として利用するのは「大人」としては不健全なのでは、というようなことも考える*2

一方で、思春期の頃に知ってから今に至るまで、なんだかんだ人生のどこかに割と深く根ざしているアイドルグループがいる。音楽先行ではあるものの、メンバーひとりひとりに対してある種の「親密さ」を感じてしまっている自分もいて、これから先、彼らとどうやって正しく付き合っていけばいいんだろうか、と考える日々でもある。奇しくも今日は末っ子の20代最後の日。今のところ彼らやファンダムに対して「『成熟を拒む振る舞い』を見出して葛藤する」、というようなことはないが、今後どれくらいの距離感を維持すべきなのかは考えた方が良さそうだな思ったりもする。

そういえばこの夏、2年半くらい言語交換をしていた韓国の方とついに対面した。って書いてたらチャンギハのこの曲流れてきた。いい歌詞だな。


www.youtube.com

할건지말건지

おわり

*1:念のため明言すると、ここでは、ジャニー喜多川による性加害はあった、という立場をとる。99年~04年の裁判での結果(ジャニーズ事務所に対する名誉棄損で文春は敗訴しているが、争点のひとつであったジャニー喜多川による性加害について最高裁で「真実性の抗弁が認められる」とされた)、2023年3月以降実名・顔出しで被害を訴える人が10名近くいること、また、ジャニーズ事務所が立ち上げた「再発防止特別チーム」が「性加害はあった前提で調査を進める」としていること、の3点に依拠して上記の立場をとっている。

*2:別にそういう「大人」がいてもいいんだと思うが、それが多すぎると社会として変なことになるのでは、みたいなこと。

ちょっぴりもやもやしたコントの話(キングオブコント)

ビスブラの優勝に異を唱える系とかではない。ビスブラの話ではある。

お笑いとフェミニズムにぎゃーぎゃー言いながら苦しんでいた2019年からはや3年。引き続きフェミニズム周辺の本をつまみ食いしながら、遠くの方からお笑いを見る日々。今年劇場で見たのはかが屋空気階段キングオブコントの準決勝(1日目)。周辺のラジオもテレビもゆるっと。お笑いは楽しいけどなんだかんだでホモソーシャル的なあるいはミソジニー的なノリが強いところではあって、近づきすぎると考えこんじゃったり打撃を食らってしまったりすることをどっぷり期を経て知ったので、浅瀬でちゃぷちゃぷするにとどまっている。

そんな風に距離を取っていたのに久しぶりにもやもやしてしまっているのは、先日放送されたキングオブコントビスケットブラザーズが披露した2本目のコントのため。全然頭の整理ができてないけどとりあえず書いてる。書いてるとまとまることもあると思いたい。

準決勝ではじめて見たときに自分がどんな感想を抱いたのかはっきり覚えてない(そこまで刺さったわけでもなくかといって激烈な嫌悪感を抱くほどでもなかったからだと思う)が、笑っちゃうところもあるけど笑いづらい、という感覚だったよう気がする。きんちゃん演じるキミカに対し、原田さん演じるフミコが「紹介したい」と話す人間(ダイスケ)が、まさにその話をしている人間(フミコ)の中から「出て来る」、という構造は意外性があった。顔も面白かった(ビスブラいつだって顔がずっと面白い)。ただ、その展開を知ったうえで改めて決勝で見たとき、「女性のふりをして女性に近づく男性」という設定に感じてしまった気味の悪さと戸惑い(本当にそんな人がいたら怖いしそんな人いないとも言い切れない不安)や、これはトランス差別に接続されてしまうのではという懸念が、顔の迫力だったり動きの俊敏さといったフィジカル面で面白いと感じていた部分を超えてしまい、1回目に見たときよりもけっこう笑えなくなっていた。さらにそれが大絶賛されていたことにうむむとなってしまい若干の夜更かし。

いずれにせよたしかなことは、何かを「笑える」とか、何かを「笑えない」とかいうことは、どうやら対象物に付随する性質ではない、という点だ。笑いはそこに内在するものではなく、むしろそれを見る観客の規範や価値観にもとづいて派生するものなのである。だからこそ、「笑いにくさ」の正体は、ネタのおもしろさという次元だけで語りうるものではなく、社会的なまなざしの問題として理解されねばならない*1

ここ数年インターネット上におけるトランス差別に関する議論が活発になっているのもあって余計にもやもや?

トランス差別に関する話題はある程度関心がないと追いかけないだろうから、関心がない人だったらそこまで考えてネタ作ったりもしないよなと思いつつ、一方で、2021年に星野源みたいな人が『トランスジェンダーとハリウッド』をすすめていたり、実際に映画『ミッドナイトスワン』公開時にトランスジェンダー女性役はトランスジェンダー女性がやるべきではという話題でちょっぴり炎上もしたりしていたし、日本のドラマや映画にもトランスジェンダーが登場することが多くなってきたので(2021年だとNHKの「半径5メートル」など)、「トランスジェンダー」という存在自体について、ある程度は人々の意識の俎上にのぼる状態になっているのでは?とも思っていた。表現に関わる人だとなおさらアンテナ張ってそう、という思い込みもあるかもしれない。

www.huffingtonpost.jp

ただ、これまでテレビでさんざんやられてきた「オネエ」揶揄のように、ビスブラのコントでは女性(フミコ)の「ふりをしている」(この言い回しを使うことが適切なのか分からない)男性(ダイスケまたはリョウタ)が女性(フミコ)として存在しているときの行動を、キミカが気持ち悪いなどと茶化すようなことはしていないのがまだ救いだったかもしれない(コントの中でダイスケがフミコになるために準備された小道具(かつら、カーディガン、スカート)のうち、かつらだけをかぶった(フミコとして)「不完全」な状態にもかかわらず、堂々と「フミコ」として喋るダイスケまたはリョウタに可笑しさを感じた観客が笑うことはあったとしても)。

あとこれはビスブラのコントとは別の話だけど、女性審査員を追加したほうがいいって強く主張するわけではもうないものの(界隈へのパッションのようなものがないともいえる)、コントの中身は時代をいくらか反映したりして変わってるのに周辺はそれほど変わらないのだなという感想を抱くなどした。審査員を一新したときにも若干その気持ちはあったけど久しぶりに行った準決勝で審査員席に座ったプロデューサーや作家が相変わらず見事にオール中年男性(若い人もいたら申し訳ないけれど遠くて見えなかった)だったのもたぶんある。

ついでにキングオブコント準決勝1日目の感想。ここ数年ちらほら見た「新しく規範に加わったものに対して『これってどうなの?』と問題提起または逆張りをする」風のコントが少なくて好きだったのと、展開!ってのも出オチ押し出し!って感じのコントもあり、例年通りではあるかもしれないけどバラエティ豊かでとても楽しかった。

引き続きもやもやはしながらもコント自体は楽しいのでたぶん来年も楽しみに見ちゃう。ヨネダ2000来年こそは決勝いってくれー!

おわり

*1:塙幸枝(2019)「「許容のコミュニケーション」としての笑いーおもしろいから笑うのか、笑うことでおもしろくするのかー」早稲田文学会『早稲田文学増刊号 「笑い」はどこから来るのか?』筑摩書房, p.88-p.94

久しぶりの夏、久しぶりの夏フェス

2022年、ほとんど虚無だった2020年と2021年を取り戻すかのようにたくさんライブやコンサートや舞台に足を運んでいる。ロッキーホラーショー、こどもの一生、不思議の国のアリスかが屋空気階段。レキシ、どんぐりず、坂本慎太郎。この夏に観たセクシーゾーンの「ザ・アリーナ」が、これまでに行ったアイドルのコンサートの中でもいちばんくらいによくてびっくり。曲・映像・衣装・演出(コンセプト)の全部が完璧で大好きになった。

そして、2019年ぶりのサマソニ。しかも初めての両日参加。在宅勤務ですっかりなまってしまった体が持つか正直だいぶ心配だったけど意外となんとかなかった。前の方でちゃんと見たい!と思ったのは2016年ぶりのTAHITI80と、はじめてのSTUTSぐらいだったので、全体的にわりとまったりしながら過ごしたサマソニ

1日目は夜に雨が降ってきちゃったけど2日目はずっとちょうど良いお天気で、夜は夏の終わりみたいな涼しさ。そんなばっちりな状態のビーチステージで見たSTUTSくんがベストアクトだった。ゲストもたくさん来ていて、音楽は当たり前に最高で、ときおり吹き抜けていく風は心地よくて、おまけにSTUTSくんは可愛いしで楽しいを通り越して幸せだとすら思った。ライブを見てて幸せだー!生きててよかったー!ってなるくらい感情が高ぶってしまうことはそこまでたくさんないけど、このときばかりはそうなってしまった。うまく言葉にできないくらいきらきらしていて素敵な時間だった。

STUTSが終わって次の秦基博が始まるまでの間、海辺に近い砂浜に座ってちびちびラムトニック飲んでたらちょっとだけ酔った。サウンドチェックの音と波の音がまじりあって、そこにひんやりした海風が吹いてきて、なんだこの幸せな瞬間はとひとりで泣きそうになったりしていた。そうしてると秦基博がはじまって、と思ったら花火がひゅーと上がって、夏の終わりにふさわしい美しい光景でまたじんとしてしまった酔っ払い。

久しぶりの夏フェスでいつもに増して感情を揺さぶられていたのかも。ふつうのワンマンライブやイベントも行くけれど、夏フェスはそのへんとはまたちょっと違った好きなところがある。友だちとお祭り騒ぎできる、というのももちろんあるけど(今回はサマソ二丁目がそれだった)、なによりも音楽が好きなひとたちがあちこちで多少酔っ払いながら好き勝手にふらふら踊ってるところと、そんな人たちがたくさんいる環境で自分も気ままに踊れるところがすごく好き。みんなでクラップしたりリズムを取ったり、という決まったノリ的なものも一体感があって好きだけど、おのおのが好きなところで好きなようにブチ上がってたり、あちこちで謎の踊りが発生してたり、でもみんな楽しそうなその雰囲気自体がほんとに好き。

最後の最後にPost Maloneを見に行ってた友だちと合流して、ピザを半分こして食べた。

良い夏だったな!

おわり

また春が来た

タイトルに「また」ってなんとなくつけちゃったの、間違いなく椎名林檎を思春期にたくさん聴いた影響だと思う。シドと白昼夢をノリノリで歌ってちょっと引かれた田舎の高校生、最近はカラオケに行く機会すらなくなった。

年が明けたなあと思っているうちに春になって、近所の公園の桜が見ごろを迎えていた。土日は混んでそうだからと平日の昼に散歩がてら足を運んだら思ってたよりも人がいて、そうだった、今は春休みの人も多いんだったとひとりごちて写真をバシバシ撮った。薄い青の空にほとんど白に近い淡いピンクの花が散ってる様子がどうしてこんなにも好きなのか。歩いてたら桜ががくからぼとぼと落ちて来るところがあってちょっとだけ怖かった。

毎日はあんまり変わり映えしないけれど今年は舞台を見に行く予定がどんどん入っていて楽しみ。早速今週は空気階段。地味にライブで1回しか見たことがなかったのでドキドキ。

最近読んだ『わたしたちが光の速さで進めないなら』という本がよかった。その中でも、ヒジンという宇宙飛行士が目的地とは異なる惑星に不時着して、そこにいる生命体と数十年かけて交流を深めていく物語がとても好きだった。ヒジンの世話をするのはルイという名前の生命体。ルイも含むかれらが発する音声言語は人間には周波数が高すぎて聴きとれず、文字言語も存在しないので意思疎通ができない。けれどもヒジンは長い長い時間をかけてかれらとコミュニケーションを取る方法をいくつか見つける。はじめて「おやすみ」とルイに伝えることができたとき、相手を大切に思う感情が深まるのを感じた、というヒジンの描写によく分からないけどわっと泣いてしまって自分でも不思議だった。

疎通し合うことなどありえないと思っていた理解不可能な他者と、わずかでも意思疎通ができること。図形の相似みたいにその文脈を現実世界に引っ張って来ると(同じ人間でも理解し合うことは不可能だという前提に立って)、ヒジンとルイが意思疎通する様子は、数多の規範や習慣を身につけたわたしたちが表面的で形式化されたやり取りを交わす様子ではなく、何か深いところでお互いに通じ合っている様子のように思えたのかもしれない。それか、シンプルに、あいさつという、単純ながらも相手を配慮することばを交わすこと自体が沁みてるのかもしれない。

コロナ禍になって、なのか、それとも言語交換の相手の影響なのか、相手へ配慮を目に見えるかたちで(言葉や行動)示すのって大切なんだなと思うようになった。会社のチームの中での立ち位置が変わったのもあるかもしれないけど、最初にそれを思ったのは言語交換の相手に対してだった。大真面目にこちらの質問に答えてくれる姿勢、大真面目におすすめの音楽や本を聴いたり読んだりしてくれておまけに感想まで言ってくれる姿勢。これまでもそういうことを誰かにしてもらった機会がなかったわけじゃないのに、そういった反応をしてもらえると確かに嬉しいのだなと改めて思ったのはやっぱりコロナ禍でひとりの人とのコミュニケーションに集中しやすい(コミュニケーションを頻繁に取る相手の絶対数が減った)ということもあったのかもしれない。そういうことがあって、会社の同僚とのやり取りも積極的に反応するようになった。人間こうやって少しずつ変わっていったりもするんだなーとか思う春。

今週いっぱいは雨降らないでいてほしいな。

おわり