みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

対岸の火事?

某グループの配信ドラマの予告編がゲロゲロすぎてびっくりしちゃった秋の終わり。これまでにすごく関心を持ったわけでもない人たちのことなので、正直なところダサいおじさん同士で好きにキャッキャやっててくださいという感じだけど、このご時世にこんなことマジでやるの?という企画で改めてびっくりしてる。ドラマ本編が配信されたわけではなく、現段階で実際の詳細なプロットや表現は分からないけど、予告編の冒頭で乳房を水風船で表現してみたり、「おっぱいが大量にある」というセリフがあったりする時点であんまりろくなドラマにはならないんじゃ……という予感。本人の意志とは無関係に性的なものとしてまなざされる女性のからだの一部(ここでは乳房)を「女」の記号として切り出した表現がグロテスク。グループの名前やメンバーの名前は知っているものの、コアのファンではなく配信サービスの既存ユーザーでもなく今後本編を見ることもないだろうと思うので、ただこのグループとメンバーへの妙なイメージを植え付けられただけで終わりそう。前にクロニクルの深夜おひとりさま女性突撃企画へのモヤモヤを書いたときに、件のグループのファンの方からわたしの好きなグループでも最近こういう危うい言動があって、というメッセージをちらほらともらったのを思い出したりもした。(ジャニーズの他のグループやLDHのファンの方からも同じようなメッセージをもらった)

メンバーがただの出演者で制作への関与がなかったら、事務所のマネジメントがヤバいのかなってところに着地したかもしれないけど、メンバーの持ち込み企画だったらしいというから驚き。そしてそのメンバーがキャリアも実績もあるいい大人なのもキツい。仕事である程度の地位まで到達したときに、周囲から批判的なフィードバックをもらえなくなる怖さ、「周囲から諦められちゃった人」になる怖さみたいなものを、ナイナイ岡村さんの件で目の当たりにして(矢部さんがオールナイトニッポンでそんなこと言ってた)、自分が中堅ぐらいのポジションになったときにそうならないようにするにはどうしたらいいんだろうとか、あんまり関係ないところにまで思考を飛躍させちゃったりもした。原案書いた方がそういう存在になっていたかどうかは知らないけど、この企画に関わった人たちが当時の岡村さんみたいな「周囲から諦められちゃった人」たちじゃきゃこんな気持ち悪い煮詰めましたみたいな企画は出なさそうというか。「セクハラ(権力勾配を利用した、本人の意に反する性的な侮辱や接触なんてうまくかわしてこそ良い女」みたいな謎規範や、痴漢みたいな「当たり前みたいな顔して日常の中に居座ってる性暴力」があふれる社会ではあるものの、そのような状況への批判がなされるようになってきて、関連トピックを扱うには知識もスキルも必要だという認識が(少なくともクリエイター側には)それなりに定着していそうな今このタイミングで、こんな企画にゴーサイン出せちゃうの、ほんとのほんとにマジなの……?という気持ちがすごい。自分が好きなアーティストがやってたらキツすぎてしばらく立ち直れない。未満警察のときもだいぶキツかったな……。

幼少期からルッキズムど真ん中に置かれて、アイドル雑誌の取材では異性愛中心主義的な質問に偶像として答えることを強要され続け、芸能界の規範をガチガチに内面化し、みたいな環境が続くジャニーズもだいぶ大変だろうなとは思いつつも、そんな中でも時流を見極めて柔軟に対応していく人たちも(年齢や学歴にさほど関係なく)いるしなと思ったり。むつかしや。

おわり

 

MIU404の久住のこと

久住は「ダークナイト」のジョーカーのようないわゆる純粋悪の化身ではなかった。それ相応の過去を持ち、何かしらのきっかけで悪事にはたらいてしまったひとりの人間だった。そして、「JOKER」のジョーカーのように、誰にでも分かるお涙頂戴的な物語を来歴に持つ存在でもない(その来歴がどこまで本当なのかという推論はおいといて)。

「俺はお前たちの物語にはならない」

久住は劇中の登場人物に、視聴者に、自ら「理解可能な何か」になることを許容しないという明確な拒絶を表明する。

嘘か本当か分からない身の上話を語ってきた久住が、彼にも「過去」があったことをにおわせ、無様な姿で逮捕され収容される。最終話で明らかになったのは「人間ならざる悪のカリスマ」のように見えた久住も「ただの人間」でしかなかったことだった。しかし、彼がなぜ数々の悪事をはたらいたのか、そこにどのような理由があったのかについて、最終話で語られることはない。万が一続編があったとしても、それが語られることはないだろうと思う。

物語は「終わり」があってはじめて物語として成立する。人の人生から「物語」を生み出すためには、物語化というプロセスが必要となる。ひとりひとりの人生は、澱のようにたまる時間のなかで、出来事として切り出せる何か、または出来事としても切り出せないような行為を経るだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ生きているだけで物語が生成されることはない。そのため、物語を生成しようとするとき、手始めに「終わり」を据える地点を定め、次いで「終わり」に向かう違和感のないプロットを編むことが必要となる。物語は「真実らしさ」で聴衆を納得させるため、物語化のプロセスで、さまざまな出来事や行為に対してプロットに沿うか沿わないかの取捨選択が起きる。

「どれがいい?」

名前や生い立ちを求められて久住が吐き捨てるように言ったそのセリフは、誰かにとって都合の良い物語を作ることにうんざりした人たちの言葉のようにも聞こえた。

三者から「物語」を期待されやすい人たちと、あまり期待されない人たちがいる。「人たち」と、あたかも特定の集団がいるかのように語るのは正しくないが、何かしらの側面でいわゆる「マイノリティ(少数派、権力を持たない/持てない、ラベリングを付される側)」の要素を持つ人は、そうでない「透明な」人よりも物語を期待されることが多い。

やっかいなのは、期待されたものとは異なるトーンの物語を提供してしまったときに、過剰なまでの同情や哀れみ、また、時には怒りが寄せられてしまうことである。ただほんとうの話をしただけなのに、その物語を期待したはずの誰かはどうやら困惑しているようだ。そうしてハッと気が付く。「らしい物語」を語れとでも言うかのような、期待に満ちたまなざしが向けられていたことに。かれらが聞きたいのは「語り手にとってのほんとうの物語」ではないのだ。かれらが傷つくことのないよう、驚くことのないよう、内容の濃淡や刺激で失望したり戸惑うことがないように、うまく調整された物語。期待されていたのは「ほんとうらしい物語」だったのだ。かれらが自分たちの現在地を確かめるためのエンターテイメントみたいなものだ。

そういったことが繰り返されると、目の前に現れた誰かにたいして、「わたしにとってのほんとうの物語」や、まだ物語にもならないような欠片を話すことはなくなっていく。この人が求めているのはどのテイストの物語だろうか。相手の期待に合わせて物語のレベルを調整することで、相手は満足し、コミュニケーションも滞りなく行われる。いいことばかりだ。そして、物語をいいように搾取されるばかりだった語り手は、物語の編集や捏造によってその場の支配を可能にする。あるいは、そうすることでのみそれが可能になる。

「どれがいい?」

諦めと嘲りが混ざったような声の調子。強烈なシンパシーと自己嫌悪が呼び起されて、ずっと耳から離れない。

おわり

夏の終わりにSUMMERENDを聴きたい

高校のときに生まれて初めて行った夏フェスで、最初で最後のBEAT CRUSADERSを見た。ちょうど夕焼けがいちばんきれいな時間で、オレンジとむらさきが混じりそうな空の下でSUMMERENDを聴いた。そのときの記憶が強いのか、いまだに夏の終わりにはSUMMERENDが聴きたくなる。夏はまだ終わりそうにないけど8月は終わりそう。もう今年もあと4か月かと思うと変な気持ちになる。あと4か月で何がどうなるんだろうか。(そういえばこないだビークルもサブスク解禁されてた)

仕事するかMIU404見るか本読むか韓国語勉強するかぐらいしかやってることがないので、あんまり書くこともない。ふとした日常への感傷に起因したポエムみたいな文章書きがちだけど、今月はそういう感傷が訪れるタイミングもなかった。コンサートやライブの予定が全部消えたところで、音楽をディグって聴くことができる環境さえ整っていればフラストレーションがたまるわけでもない体質なので、まあ穏やかに生活している。あ、でも夏フェスは行きたかったな。来年は無事フジロック開催されますように。そういえば金曜日にやってたELLEGARDENの配信もよかったなー。やらなきゃいけないことあったのにアレンジも雰囲気も良すぎて最後まで全部見ちゃった。

先週ぐらいから『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を読みはじめた。あれこれ試行錯誤して今はおおむね希望通りの仕事ができるようになったけど、2年前の冬ぐらいだっけ、自分には全く無意味に思える仕事をしているのにフルタイムの給料をもらえることにどうしようもない違和感と苦しさを感じていた時期があった。なるほどあれを「ブルシット・ジョブ」と呼んで差支えないのかもしれないとこの本を読んで思う。本の中では、様々な人たちから寄せられた実例を取り上げながら「ブルシット・ジョブ」の5つのタイプ、ブルシット・ジョブによって引き起こされること(たとえばメンタルがやられるとか)を示し、そしてなぜブルシット・ジョブが生まれるのかについて考察を深めていく。

今やってる仕事をわたしはブルシットだと思ってないが、本の中ではブルシットの部類に分類されうるらしく、まあそれも分かるけどなあと思いながら読み進めている(半分をすぎたあたり)。たまに仕事しながら、全体として歪んだ構造の中にいる/その構造の維持に加担しているような曖昧な感覚と、賃労働を行うひとりの人間としての明確な居心地の良さが自分の中でバトりはじめちゃったりするときはあって、でももう圧倒的に後者の方が強くなっちゃった。自分の実感としてそこに存在するんだからまあそりゃそうだよね。イデオロギーと実際の生活戦わせたところで、という感じ。これが敗北?(何に?)

本の中で、あまりにもやることがなさすぎてメンタルをやられてしまう人の事例が取り上げられていて、分かるような分からないような。監視付きでやることがないときはキツかったけど、監視がない状況で何やってても良いよという状況はパラダイスだったような……?と思いながら読んだ。というか今がわりとその後者の状態かな。基本的に自分で自分の仕事量と時間は管理してねという方針なので、やるべきことが終わったら好きにしていることが多い。だからこそブルシットじゃないと感じるのかもしれない。(わたしは意味があると思ってやっている、というのもある?)

無意味に思える仕事をしてたときは本当に「わたしの人生の時間を切り売りしてわたしは一体なにがしたいんだろう?」という気持ちになっていたし、実際謎の症状が出て病院に行って検査を受けたりもしたから、本人がその意味を解することができない仕事を続けるのは本当に体に毒なんだろうなと思う。(ブルシット・ジョブの著者が何を持って「無意味」とするのかについては説明していないように思えたし、わたしはその点で筆者と考えが違うのであくまで本人が意味を解さない仕事にしてみた)だからってやりがい!だけを仕事の意味にしてしまうのもしんどそうだけど。

来週のMIU404が楽しみ通り越してもはや怖い。九重どうなってしまうん?

おわり

凡庸でご機嫌な日々

季節外れの連休をやっている。と書いてみて思ったけど、今は夏で、夏と言えば夏休みやお盆休みがあるからそれほど季節外れでもないかもしれない。アメリカにいる友人を訪れるために、今期に入ってから1日も使わずに有給休暇をためていたのだが、新型コロナのせいで計画はおじゃんになってしまった。そして、特に休みを取る契機もないまま休まず仕事をしていたら、人事部から「××までに一定日数の有給休暇は使うように」というお達しが来た。そんなわけで妙な期間に妙な長さの休みを取っている。部屋の掃除をしたり模様替えをしてみたり、あれこれしているうちに連休も終盤に差し掛かってきた。

4月から始まった在宅勤務もそろそろ板についてきて、休みかどうかに関係なく、朝はそこそこ決まった時間に起きるようになった。窓を開けると、見慣れた曇り空と少しひんやりした空気。そろそろ洗濯しようか。曇り空が続くなかで洗濯するかどうかを決めるのは、ちょっとした博打に近い。天気予報はあまり当てにならないが、念のために天気予報も調べて思い切ってリネンの洗濯を決行する。午前は仕事の勉強のようなものをしたり、同期の愚痴を聞きながらネットサーフィンしたりしているうちにあっという間に過ぎてしまった。お昼には最近ハマっている鶏トマトそばもどき。作り置きのいんげんガパオとトマトを煮たスープに、茹でたそうめんを入れるだけ。やっぱりトマトは最初に強火で炒めたほうがおいしい気がする。

午後、図書館から資料の準備が整ったよというメールが届いたので、返したい本を携えて家を出る。おばあちゃん家にいるときの夏みたいな涼しい風が気持ち良くて、ちょっとだけ懐かしい気持ちになる。そういえば、なんとなく敬遠して読まずにいた上野千鶴子の『女ぎらい』をやっと読んだ。各領域の超重要文献を出して簡潔にその内容をまとめながらも、堅苦しい語り口にはならないので、するすると楽しく読むことができてしまう。それはどうだろうと思わないでもない箇所もあったけれど、それを補って余りある知識量と読みやすさ。もっと早くに読んでおくべきだった。高校の頃から「ジェンダー」なるものへの強い関心を自覚していたにもかかわらず、「フェミニズム」にはうっすらとした嫌悪感を抱き続けていた。それが薄れてきたのはフルタイム労働者をやってみてから、ほんとうにここ最近のことだった。なんと根深いことだろう。

図書館で返却と貸し出しの手続きを終え、運動だからと寄り道したコンビニで欲望のままに甘いものを買ってから家に帰る。本末転倒もいいところだ。買ってきたロールケーキを食べて、借りてきた本を読む。前から友だちに勧められていたものの、本屋では見つけられなかった津村記久子『この世にたやすい仕事はない』。読んでいるうちに眠気に襲われ、夕方のチャイムで目を覚ました。薄暗い中でぼんやりしているとなんだか満ち足りた気持ちになって、わたしはこの穏やかな静けさを愛しているなと思った。新型コロナの状況は全然穏やかではないし(今日はまた最多感染者数を更新したらしい)、ときどき大好きな人たちに会いたくてたまらなくなるが、この静かな孤独もわたしには居心地が良くて、すごく大事なものだと思った。

そんな感じの連休終盤。ちなみに曇り空の賭けには勝った。

 おわり

淡々とした夏

月曜日。仕事を午前で切り上げて、夏にふさわしい軽装で外出した。友だちとピザを食べながらたわいもないおしゃべりをするだけのことなのに、どこか懐かしいような気持ちになって、仕事のこと、これからやりたいと思っていること、結婚すること、子どもを持つこと、あれやこれやと話しながらカフェをはしごした。家に帰るともう6時だったけれど、お腹はすいていなかった。りんごジュースを炭酸水で割っただけのりんごサイダーを用意して、ついでに冷蔵庫の中を物色して茹でたとうもろこしをひとつ取り出す。エアコンの効いた涼しくてうす暗い部屋で、汗が引いていくのを感じながらひんやりしたとうもろこしをかじり、Netflixで『20th Century Woman』を観る。そしてふと思う。なんだこの幸福な生活は。

『ストーリー・オブ・マイライフ』を観に行ったこともあって、わたしが望む未来のわたしのあり方みたいなものを考える。もしよければわたしと人生いっしょに過ごしてみませんか?というようなことを思う友だちが何人かいる。ただ、わたしはかれらと性愛関係を持ちたいという願望があるわけではない。しかし、人生を共にしてみましょうという考えを実行に移すためのテンプレートとして公的に用意されているのは、性愛関係に基づく「結婚」だけである。「友情婚」と言って性愛関係に基づかない結婚をする人も少なくはないらしいが、それができるのは異性間だけで、同性間の場合は「カップルであることの証明」を求められる。ジェンダーセクシュアリティ、結婚、制度、こういったことについて、重要な示唆を与えてくれた大好きな友人が、知り合った当時から「友愛」と「性愛」にずっと拘泥している様子を見て、当時は全然理解できなかったけれど、今はかれがいる場所の近くまで辿り着いたような気がしている。

結婚という制度に対してわたしが抱いている違和感については、ある程度言葉で説明できるようになってきた。だけど、いまだに「結婚」そのものや、誰かとパートナー関係になることについて考えずにはいられない。現行の結婚制度に乗っかる気があまりないわたしは、「異端」なのでは?という疑問を抱かずにもいられない。

大学のとき、それまではずっと優等生だったから、「真面目ではない人」と思われたくて目立つ色に髪を染めていた。そうすることでわたしは「異端」になる、少し特別な何者かになれると思っていた。あるとき髪を染めるのをやめたのは、わたしの生まれた環境や育ってきた経験が、この社会では「異端」に分類されるものであると気がついて、自ら「異端」であろうとすることが馬鹿らしくなったからだった。「異端」になりたがっていたのに、そして、何もしなくてもすでに「異端」であることを受け入れたはずなのに、結婚やパートナー、人と関係を築くことに関しては、「異端」ではない「まともな人間」でいたいらしい。安全圏の中で「異端」として振る舞おうとすることと、不安を感じながら「異端」であるとまなざされることは全然違うことも分かってはいる。だけど、なんとなく、どこか滑稽だ。

誰かから一方的にカテゴライズされジャッジされること。それを恐れているだけなのかもしれない。

おわり

覚え書き:アルベール・カミュ 『ペスト』

4月の半ばに『ペスト』を読んだときに書き留めたメモと、最近考えていることを付け加えたやつ。

抽象概念としての「ペスト」、理不尽な、あるいは「不条理」な出来事が起きるとき。それは遍在しているものであるにもかかわらず、わたしたちはたいてい無防備にそれにさらされ、そして、しばしば自分の身にそれが起きているときにも、それが現実に起きた出来事であるということを受け入れられない。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。(p.55)

それは「死」についても同じ。

しかし、一億の死亡者とは、いったいなんだろう。(中略)それに、死んだ人間というものは、その死んだところを見ないかぎり一向重みのないものであるとなれば、広く史上にばらまかれた一億の死体など、想像のなかでは一抹の煙にすぎない。(p.57) 

体験することなしに、「死」がどのようなものであるのかを十分に理解し、また想像することはできない。そのための能力を人間はたぶん持ち得ないようになっているのだろう。「生」のために、その能力の欠如自体は必要なものだったとも言える。

相次ぐ増加はともかく雄弁であった。しかし、それは十分強いものであったとはいえず、市民たちは不安のさなかにも、これは確かに憂うべき出来事には違いないが、しかし要するに一時的なものだという印象を、依然もち続けていたのである。(p.113)

感染症の患者や感染症による死者が積み重ねられても、それを目の前に突き付けられても、なお「まさにわたしたちに起きている事柄なのだ」というリアルな実感を持てないでいること。これはある種の生存本能のようなものなのだろうか。 

実感しがたい「ペスト」が近づくとき、それによって何かが、人々の生活が、社会の仕組みが、あるべきと考えられる姿が、何もかもが変わりつつあるとき、決裁権を持つ一部の人たちはしばしばそれを無視する。

市庁はまだ何をするつもりもなく、なんら検討もしていなかったが、そのかわり、まず会議に集まって評定することから始めた。(p.22)

いまわたしがいる社会の状況を彷彿とさせるもの。そしてこれは、仕事をするようになって頻繁に目にするようになったものでもある。

「あなたは抽象の世界で暮らしているんです。」(p.129、ランベール)

「100分de名著」では違うふうに解釈していたけど、最初に読んだとき、わたしはこの「抽象」を死者の「数」だと解釈した。「数」はわかりやすい。目に見えて増えたり減ったりする。全体の状況を把握し、次の判断を下すにつなげるには役に立つ指標。けれど、そこからひとつひとつの「死」が持つ意味や文脈、それによって壊れてしまった誰かの存在や、もう二度と戻って来ることのない世界があることを読み取り、そのひとつひとつを感じ取ることは不可能だ。これは是非の問題ではなく、単に可否の問題。そして、わたしはひとつひとつの「死」の意味、ひとつひとつに付随したコンテクスト、その背景にあったもの、失われたもの、得られたもの、変化したもの、そういったものすべてに拘泥している。

ペストがオランの街に蔓延していく。リウーと共に保健隊として活動するグラン。妻と離婚したあともなお妻を想い、進まない小説を書いている彼は凡庸で、誰かがそうありたいと願うような人間としては描かれない。けれど彼こそがヒーローなのだと筆者(カミュではなく作中の人物)は言う。

「まったく、もし人々が、彼らのいわゆるヒーローなるものの手本と雛型とを目の前にもつことを熱望するというのが事実なら、またこの物語のなかに、ぜひともそれが一人必要であるのなら、筆者はまさに微々として目立たぬこのヒーロー―その身にあるものとしては、わずかばかりの心の善良さと、一見滑稽な理想があるにすぎぬこのヒーローを提供する。(p.202)

ヒーローのイメージ。華々しく活躍する素晴らしいひと、夢をかなえた格好良いひと。グランは素晴らしくもないし、格好良くもない。でも、そんなグランこそが「ヒーロー」と称されることの意味。

一方で、カミュは改めてヒロイズムの危険性を強調する。ヒロイズムは人を殺すことができると、わたしたちに警告する。

「ところがです、僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません、僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心ひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」(p.244、ランベール)

ヒロイズムに陶酔した人間は、他人を殺すことも厭わない。自らをヒーローであると自認することによって、それに酔いしれることによって、今まさに行おうとしている残虐な行為をも「正しい」行為であると捉えることができてしまうからだ。そして、そのようなヒロイズムへの陶酔、あるいは英雄的行為を、第三者として賛美することも、そういった「正しい」行為への加担だといえるのかもしれない。日本で書かれた第二次大戦を舞台とする小説によく見るロジック。当たり前のように一般に流通している不思議なロジック。

「あのひとたちが戦ってくれたから、いまのわたしたちがある。」

誰かをヒーローと礼賛することで、かれらの行為(それはしばしば「殺人」であるだろう)が正当化され、同時に、人間であるはずのかれらはもはや人間ではなくなり、ひとりひとりが味わったはずの苦しみや葛藤も存在しないものとされる。捨象された具体のかけらを踏みつけたうえに成り立つ虚構。

そして、ペストの蔓延は、いつもの日常では覆い隠されていた歪みをも白日のもとにさらす。 

貧しい家庭はそこできわめて苦しい事情に陥っていたが、一方富裕な家庭は、ほとんど何ひとつ不自由することはなかった。ペストがその仕事ぶりに示した、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に、人々の心には不公平の感情がますます尖鋭化されたのであった。(p.350)

全く同じことが起きている。ほんとうに全く同じことが。新型コロナウイルスが欧米で流行しはじめたころに、だれかが「ウイルスは万人に平等」といった内容を言っていたのを聞いたけれど、実際には全くそうではなかった。

彼の感受性はもう彼の自由にならなかった。大部分のときは強直したまま、硬化しひからびてしまっていたが、それがおりおり堰を切っては、もう制御のできないような感動に溺れてさせてしまうのであった。(p.279)

現場の第一線で走り続ける人たちが、どうにもならない状況に疲弊しきっていくさま。すべてがいまをなぞる。

 

p.363-p.378でタルーの経験と思想が語られる。わたしはそれにひどく共感する。

「僕が心がひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ。」(p.379、タルー)

わたしはキリスト教的な文脈を共有していないので、聖者が具体的に意味するところを完全には理解しない。けれど、「正しさ」と「善さ」をそなえた人間にどうすればなりうるのか、ということをなぜか繰り返し考えているという点で、タルーのことばに共感と安堵をおぼえる。そもそも正しさとは何なのかという問いもあるけれど、正しくあることが難しい場においても、自分ができる範囲で正しくあろうと努めている(または、努めたいと思っている)点で、自分をタルーに重ねてみたりもする。わたしがそう思うに至ったのは、他者に理解されなかったときの「悲しみ」から、自分もその誰かと同じ罪をおかしうると気づいたからで、タルーは彼が経験した「殺人」からだった。

時がたつにつれて、僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ。(p.375)

これは同時に、自らを人畜無害な善い存在として扱うな、という忠告のようでもある。わたしも何かをきっかけとして加害者になり得る、という楽観的な考えではない。わたしたちは既に加害者であり、常に加害者たりえるのだ。卑近な例を挙げれば、わたしの豊かな生活は、安い賃金で働く人々に依存している、ということになるだろうか。

不可能を追い求めようとするという点で、タルーとカリギュラはどこか似ている。タルーは殺人から一切身を引こうとすることによって、カリギュラは気ままに殺人を繰り返すことによって、不可能を達成しようとする。

おわり

思いもよらないこと

少し前に大学の友だちとオンライン飲み会をした。

在学中にすごく親しくしていたわけではないけれど、なんとなくずっと連絡を取っていて、つかず離れずみたいな距離感を保っている人たち。わたしが彼らのひとりひとりに対してずっと好感と関心を持っていることも、微妙な距離が保たれている理由なのかもしれない。みんな同じ学部だけど専門はバラバラで、だけどやっぱり同じ学部ゆえなのか思想の根っこみたいなところは割と似通っている。少なくとも会社の人と話しているときにぎょっとしてしまうあの感覚に襲われたことはほとんどない。みんな当たり前のように政治や思想の話をするし、これまでに親しんできた、いまなお親しんでいる文化(漫画小説テレビ音楽美術哲学、とか)の話をする。

最近の生活のこと、仕事のこと、その他の取るに足らないようなどうでも良いことについて、だらだら適当に話しているだけなのに、バカみたいに笑えた。バカみたいに楽しかった。のに、ひとつだけ心に引っかかってしまったことがあった。何の話をしていてそういう流れになったのかは忘れてしまったけど、慶應義塾大学のミスコンで起きたセクハラ事件*1が話題に挙がった。あの事件ほんとに最悪だったよね、というような話をしていたら、ひとりがこう言った。

「でも告発した女も女じゃない?」

おっと、そういうことを言っちゃうのか。ああ、出くわしてしまった。知らないままでいたかったのに。

わたしは黙ってカルピスを飲んだ。つかず離れずの距離は、こういうときに厄介だなと思った。すごく親しい友だちだったら「本気でそう思っているのか?」と、それぞれの立ち位置を確認しながら話し合うことができたし、どうでもいい知り合いだったら、「できるだけ関わらないようにしよう」と思うことができたからだ。そのどちらもできず、わたしは画面から目をそらしてちびちびとカルピスを飲んだ。

「できれば知らないままでいたかった憎悪/蔑視/差別の片鱗に出くわしてしまった」経験は、別にこれが初めてじゃない。日本以外の東アジアの国々、そこに住む人々について、極端な差別とまでいかなくても、軽口のような、冗談みたいな差別をちらつかせる人をわたしは何人も目にしてきた。コミュニケーションの一環として、自分にはユーモアのセンスがあるとでも言うように、彼らが侮蔑的でくだらないことを口にする場面を何度も目にしてきた。(そういえば去年のキングオブコントの準決勝でも、いまだにそういうネタをやっているコンビがいた。)そういったものに精神を削られないために、自衛がてら、出会う人みんなにわたしは自分の出自をわざわざ説明するようにしてきた。説明しておけば、そもそも変な奴は寄ってこないし、説明したうえで差別的な発言をするような人間がいればそんなのは縁を切ってしかるべきだと自分で納得できるからだ。

友だちが何の気なしに口にしたそのひとことで、わたしは、どこにでもある話題のひとつとしてフェミニズムの話をすることに対して、少しばかりの怖さを感じるようになってしまった。出自を明かさないで付き合いを続けた人が、ふとした拍子にこぼした差別的な軽口に肝を冷やす感覚と似ていた。今後、わたしがわたし自身の経験や、わたしのまわりの人たちの経験について話したときに、この友だちみたいに「やりすぎ」だと言われてしまうのだろうか。他の事柄について話すときにはすごくしっくり来る友だちなだけに、ああ、こういうことって本当にあるんだなと少し落ち込んでしまった。

コップに残っていたカルピスを飲み切ったときには、別の話題に移っていた。その発言に反応する人がいなかったので、それ以上の追い打ちはなくてホッとしたけれど、感じてしまったわだかまりは消えないのだろう。 

あくる日、大学のときの別の友だちから久しぶりに連絡が来た。好きなものは似ているものの、なんというかつま先から頭のてっぺんまで真反対な女の子だ。ふつうに話しているとそれなりに楽しいけれど、深くまで突っ込んでいくと根っこの違いが露呈するような、あまりにもわたしと違いすぎているので、その違いにあっけにとられたり、ときには否定的な気持ちになったり、ときには羨ましいと思ったりするような女の子だった。わたしがこのめんどくさい内省的な性格を持ち合わせていなかったり、フェミニズムをかじったりしていなければ、たぶんわたしは彼女のことが「苦手」だったろうなと思う。

彼女からの突然の連絡は、ざっくり言えば「フェミニズムに興味がある」という内容だった。どうやら『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだらしい。彼女のこれまでの振る舞いから、どちらかというと、性的なからかいもうまく受け流してこそ器用な女、というような考え方をしていると思っていたから、彼女がフェミニズムに関心を持つようになったことも、そして、そのことについてわたしに連絡が来たことにも驚いた。何が彼女をそうさせたのかは分からないけれど、考え方も良しとする哲学も行動様式も何もかもが違うと思っていた彼女との関係に、少しばかりの変化が起きるのかもしれない。

思想が合うだろうと思っていた友だちの言葉にひやりとさせられ、思想が違いすぎて分かり合えないと思っていた友だちとの間に連帯の兆しを見つけた。前者は楽しくないことだけれど、後者には、ちょっとだけわくわくしている。

 おわり