みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

MIU404の久住のこと

久住は「ダークナイト」のジョーカーのようないわゆる純粋悪の化身ではなかった。それ相応の過去を持ち、何かしらのきっかけで悪事にはたらいてしまったひとりの人間だった。そして、「JOKER」のジョーカーのように、誰にでも分かるお涙頂戴的な物語を来歴に持つ存在でもない(その来歴がどこまで本当なのかという推論はおいといて)。

「俺はお前たちの物語にはならない」

久住は劇中の登場人物に、視聴者に、自ら「理解可能な何か」になることを許容しないという明確な拒絶を表明する。

嘘か本当か分からない身の上話を語ってきた久住が、彼にも「過去」があったことをにおわせ、無様な姿で逮捕され収容される。最終話で明らかになったのは「人間ならざる悪のカリスマ」のように見えた久住も「ただの人間」でしかなかったことだった。しかし、彼がなぜ数々の悪事をはたらいたのか、そこにどのような理由があったのかについて、最終話で語られることはない。万が一続編があったとしても、それが語られることはないだろうと思う。

物語は「終わり」があってはじめて物語として成立する。人の人生から「物語」を生み出すためには、物語化というプロセスが必要となる。ひとりひとりの人生は、澱のようにたまる時間のなかで、出来事として切り出せる何か、または出来事としても切り出せないような行為を経るだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ生きているだけで物語が生成されることはない。そのため、物語を生成しようとするとき、手始めに「終わり」を据える地点を定め、次いで「終わり」に向かう違和感のないプロットを編むことが必要となる。物語は「真実らしさ」で聴衆を納得させるため、物語化のプロセスで、さまざまな出来事や行為に対してプロットに沿うか沿わないかの取捨選択が起きる。

「どれがいい?」

名前や生い立ちを求められて久住が吐き捨てるように言ったそのセリフは、誰かにとって都合の良い物語を作ることにうんざりした人たちの言葉のようにも聞こえた。

三者から「物語」を期待されやすい人たちと、あまり期待されない人たちがいる。「人たち」と、あたかも特定の集団がいるかのように語るのは正しくないが、何かしらの側面でいわゆる「マイノリティ(少数派、権力を持たない/持てない、ラベリングを付される側)」の要素を持つ人は、そうでない「透明な」人よりも物語を期待されることが多い。

やっかいなのは、期待されたものとは異なるトーンの物語を提供してしまったときに、過剰なまでの同情や哀れみ、また、時には怒りが寄せられてしまうことである。ただほんとうの話をしただけなのに、その物語を期待したはずの誰かはどうやら困惑しているようだ。そうしてハッと気が付く。「らしい物語」を語れとでも言うかのような、期待に満ちたまなざしが向けられていたことに。かれらが聞きたいのは「語り手にとってのほんとうの物語」ではないのだ。かれらが傷つくことのないよう、驚くことのないよう、内容の濃淡や刺激で失望したり戸惑うことがないように、うまく調整された物語。期待されていたのは「ほんとうらしい物語」だったのだ。かれらが自分たちの現在地を確かめるためのエンターテイメントみたいなものだ。

そういったことが繰り返されると、目の前に現れた誰かにたいして、「わたしにとってのほんとうの物語」や、まだ物語にもならないような欠片を話すことはなくなっていく。この人が求めているのはどのテイストの物語だろうか。相手の期待に合わせて物語のレベルを調整することで、相手は満足し、コミュニケーションも滞りなく行われる。いいことばかりだ。そして、物語をいいように搾取されるばかりだった語り手は、物語の編集や捏造によってその場の支配を可能にする。あるいは、そうすることでのみそれが可能になる。

「どれがいい?」

諦めと嘲りが混ざったような声の調子。強烈なシンパシーと自己嫌悪が呼び起されて、ずっと耳から離れない。

おわり