みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

淡々とした夏

月曜日。仕事を午前で切り上げて、夏にふさわしい軽装で外出した。友だちとピザを食べながらたわいもないおしゃべりをするだけのことなのに、どこか懐かしいような気持ちになって、仕事のこと、これからやりたいと思っていること、結婚すること、子どもを持つこと、あれやこれやと話しながらカフェをはしごした。家に帰るともう6時だったけれど、お腹はすいていなかった。りんごジュースを炭酸水で割っただけのりんごサイダーを用意して、ついでに冷蔵庫の中を物色して茹でたとうもろこしをひとつ取り出す。エアコンの効いた涼しくてうす暗い部屋で、汗が引いていくのを感じながらひんやりしたとうもろこしをかじり、Netflixで『20th Century Woman』を観る。そしてふと思う。なんだこの幸福な生活は。

『ストーリー・オブ・マイライフ』を観に行ったこともあって、わたしが望む未来のわたしのあり方みたいなものを考える。もしよければわたしと人生いっしょに過ごしてみませんか?というようなことを思う友だちが何人かいる。ただ、わたしはかれらと性愛関係を持ちたいという願望があるわけではない。しかし、人生を共にしてみましょうという考えを実行に移すためのテンプレートとして公的に用意されているのは、性愛関係に基づく「結婚」だけである。「友情婚」と言って性愛関係に基づかない結婚をする人も少なくはないらしいが、それができるのは異性間だけで、同性間の場合は「カップルであることの証明」を求められる。ジェンダーセクシュアリティ、結婚、制度、こういったことについて、重要な示唆を与えてくれた大好きな友人が、知り合った当時から「友愛」と「性愛」にずっと拘泥している様子を見て、当時は全然理解できなかったけれど、今はかれがいる場所の近くまで辿り着いたような気がしている。

結婚という制度に対してわたしが抱いている違和感については、ある程度言葉で説明できるようになってきた。だけど、いまだに「結婚」そのものや、誰かとパートナー関係になることについて考えずにはいられない。現行の結婚制度に乗っかる気があまりないわたしは、「異端」なのでは?という疑問を抱かずにもいられない。

大学のとき、それまではずっと優等生だったから、「真面目ではない人」と思われたくて目立つ色に髪を染めていた。そうすることでわたしは「異端」になる、少し特別な何者かになれると思っていた。あるとき髪を染めるのをやめたのは、わたしの生まれた環境や育ってきた経験が、この社会では「異端」に分類されるものであると気がついて、自ら「異端」であろうとすることが馬鹿らしくなったからだった。「異端」になりたがっていたのに、そして、何もしなくてもすでに「異端」であることを受け入れたはずなのに、結婚やパートナー、人と関係を築くことに関しては、「異端」ではない「まともな人間」でいたいらしい。安全圏の中で「異端」として振る舞おうとすることと、不安を感じながら「異端」であるとまなざされることは全然違うことも分かってはいる。だけど、なんとなく、どこか滑稽だ。

誰かから一方的にカテゴライズされジャッジされること。それを恐れているだけなのかもしれない。

おわり