4月の半ばに『ペスト』を読んだときに書き留めたメモと、最近考えていることを付け加えたやつ。
抽象概念としての「ペスト」、理不尽な、あるいは「不条理」な出来事が起きるとき。それは遍在しているものであるにもかかわらず、わたしたちはたいてい無防備にそれにさらされ、そして、しばしば自分の身にそれが起きているときにも、それが現実に起きた出来事であるということを受け入れられない。
天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。(p.55)
それは「死」についても同じ。
しかし、一億の死亡者とは、いったいなんだろう。(中略)それに、死んだ人間というものは、その死んだところを見ないかぎり一向重みのないものであるとなれば、広く史上にばらまかれた一億の死体など、想像のなかでは一抹の煙にすぎない。(p.57)
体験することなしに、「死」がどのようなものであるのかを十分に理解し、また想像することはできない。そのための能力を人間はたぶん持ち得ないようになっているのだろう。「生」のために、その能力の欠如自体は必要なものだったとも言える。
相次ぐ増加はともかく雄弁であった。しかし、それは十分強いものであったとはいえず、市民たちは不安のさなかにも、これは確かに憂うべき出来事には違いないが、しかし要するに一時的なものだという印象を、依然もち続けていたのである。(p.113)
感染症の患者や感染症による死者が積み重ねられても、それを目の前に突き付けられても、なお「まさにわたしたちに起きている事柄なのだ」というリアルな実感を持てないでいること。これはある種の生存本能のようなものなのだろうか。
実感しがたい「ペスト」が近づくとき、それによって何かが、人々の生活が、社会の仕組みが、あるべきと考えられる姿が、何もかもが変わりつつあるとき、決裁権を持つ一部の人たちはしばしばそれを無視する。
市庁はまだ何をするつもりもなく、なんら検討もしていなかったが、そのかわり、まず会議に集まって評定することから始めた。(p.22)
いまわたしがいる社会の状況を彷彿とさせるもの。そしてこれは、仕事をするようになって頻繁に目にするようになったものでもある。
「あなたは抽象の世界で暮らしているんです。」(p.129、ランベール)
「100分de名著」では違うふうに解釈していたけど、最初に読んだとき、わたしはこの「抽象」を死者の「数」だと解釈した。「数」はわかりやすい。目に見えて増えたり減ったりする。全体の状況を把握し、次の判断を下すにつなげるには役に立つ指標。けれど、そこからひとつひとつの「死」が持つ意味や文脈、それによって壊れてしまった誰かの存在や、もう二度と戻って来ることのない世界があることを読み取り、そのひとつひとつを感じ取ることは不可能だ。これは是非の問題ではなく、単に可否の問題。そして、わたしはひとつひとつの「死」の意味、ひとつひとつに付随したコンテクスト、その背景にあったもの、失われたもの、得られたもの、変化したもの、そういったものすべてに拘泥している。
ペストがオランの街に蔓延していく。リウーと共に保健隊として活動するグラン。妻と離婚したあともなお妻を想い、進まない小説を書いている彼は凡庸で、誰かがそうありたいと願うような人間としては描かれない。けれど彼こそがヒーローなのだと筆者(カミュではなく作中の人物)は言う。
「まったく、もし人々が、彼らのいわゆるヒーローなるものの手本と雛型とを目の前にもつことを熱望するというのが事実なら、またこの物語のなかに、ぜひともそれが一人必要であるのなら、筆者はまさに微々として目立たぬこのヒーロー―その身にあるものとしては、わずかばかりの心の善良さと、一見滑稽な理想があるにすぎぬこのヒーローを提供する。(p.202)
ヒーローのイメージ。華々しく活躍する素晴らしいひと、夢をかなえた格好良いひと。グランは素晴らしくもないし、格好良くもない。でも、そんなグランこそが「ヒーロー」と称されることの意味。
一方で、カミュは改めてヒロイズムの危険性を強調する。ヒロイズムは人を殺すことができると、わたしたちに警告する。
「ところがです、僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません、僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心ひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」(p.244、ランベール)
ヒロイズムに陶酔した人間は、他人を殺すことも厭わない。自らをヒーローであると自認することによって、それに酔いしれることによって、今まさに行おうとしている残虐な行為をも「正しい」行為であると捉えることができてしまうからだ。そして、そのようなヒロイズムへの陶酔、あるいは英雄的行為を、第三者として賛美することも、そういった「正しい」行為への加担だといえるのかもしれない。日本で書かれた第二次大戦を舞台とする小説によく見るロジック。当たり前のように一般に流通している不思議なロジック。
「あのひとたちが戦ってくれたから、いまのわたしたちがある。」
誰かをヒーローと礼賛することで、かれらの行為(それはしばしば「殺人」であるだろう)が正当化され、同時に、人間であるはずのかれらはもはや人間ではなくなり、ひとりひとりが味わったはずの苦しみや葛藤も存在しないものとされる。捨象された具体のかけらを踏みつけたうえに成り立つ虚構。
そして、ペストの蔓延は、いつもの日常では覆い隠されていた歪みをも白日のもとにさらす。
貧しい家庭はそこできわめて苦しい事情に陥っていたが、一方富裕な家庭は、ほとんど何ひとつ不自由することはなかった。ペストがその仕事ぶりに示した、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に、人々の心には不公平の感情がますます尖鋭化されたのであった。(p.350)
全く同じことが起きている。ほんとうに全く同じことが。新型コロナウイルスが欧米で流行しはじめたころに、だれかが「ウイルスは万人に平等」といった内容を言っていたのを聞いたけれど、実際には全くそうではなかった。
彼の感受性はもう彼の自由にならなかった。大部分のときは強直したまま、硬化しひからびてしまっていたが、それがおりおり堰を切っては、もう制御のできないような感動に溺れてさせてしまうのであった。(p.279)
現場の第一線で走り続ける人たちが、どうにもならない状況に疲弊しきっていくさま。すべてがいまをなぞる。
p.363-p.378でタルーの経験と思想が語られる。わたしはそれにひどく共感する。
「僕が心がひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ。」(p.379、タルー)
わたしはキリスト教的な文脈を共有していないので、聖者が具体的に意味するところを完全には理解しない。けれど、「正しさ」と「善さ」をそなえた人間にどうすればなりうるのか、ということをなぜか繰り返し考えているという点で、タルーのことばに共感と安堵をおぼえる。そもそも正しさとは何なのかという問いもあるけれど、正しくあることが難しい場においても、自分ができる範囲で正しくあろうと努めている(または、努めたいと思っている)点で、自分をタルーに重ねてみたりもする。わたしがそう思うに至ったのは、他者に理解されなかったときの「悲しみ」から、自分もその誰かと同じ罪をおかしうると気づいたからで、タルーは彼が経験した「殺人」からだった。
時がたつにつれて、僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ。(p.375)
これは同時に、自らを人畜無害な善い存在として扱うな、という忠告のようでもある。わたしも何かをきっかけとして加害者になり得る、という楽観的な考えではない。わたしたちは既に加害者であり、常に加害者たりえるのだ。卑近な例を挙げれば、わたしの豊かな生活は、安い賃金で働く人々に依存している、ということになるだろうか。
不可能を追い求めようとするという点で、タルーとカリギュラはどこか似ている。タルーは殺人から一切身を引こうとすることによって、カリギュラは気ままに殺人を繰り返すことによって、不可能を達成しようとする。
おわり