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観たもの、考えたこと、あれこれ

190224 シアターコモンズ'19「可傷的な歴史(ロードムービー)」@ドイツ文化センター

1月に見たカタストロフと芸術のちから展で気になっていた田中功起の映像を見るために行ってきた上映会。青山一丁目ってはじめて行ったけど、思ってたよりいかつくない街だった。

theatercommons.tokyo

映像は透明感があってうつくしい。ウヒとクリスチャンによる対話で、映像は進んでいく。冒頭でふたりがそれぞれに自身の来歴、いわばかれら自身についてのライフストーリーと家族のヒストリーについて、映像を見ているわたしたちに紹介してくれる。遅刻してしまってウヒの部分は見逃してしまったけど、クリスチャンの部分はほとんど見ることができた。クリスチャンを大雑把なことばでまとめてしまうと日系(アメリカ系?)スイス人。(母方の)祖父母が日系人差別を受けた世代の日系アメリカ人2世で、母が日系アメリカ人の3世。父はたしかスイスのひと。

ちょうどこの間アメリカのロサンゼルスに行ったばかりだったので、日系アメリカ人について映像のなかで触れられていたことに、どこか運命のようなものを感じてしまった。ちょっと大げさかな。アメリカでのこともそのうち書かなきゃだな。絶対に書き残さないといけないわたしの内面についての気づきがあったから。

いい意味でも、あんまりよくない意味でも、あまりにも多くのことが引っ掛かる映像だった。映像が手元を離れてしまったいま、それをひとつずつ思い出しながら丁寧にひもとくのは難しいけど、上映後にあわてて書き留めた(といっても携帯の中に、だけれど)メモを頼りにできるだけ書き出しておこうと思う。

Japanese(Japan?) originが「日本人」と訳されていたこと

冒頭でクリスチャンが自分の祖父母について話していたとき、クリスチャンは"Japanese origin”というような英語を使っていたのに、日本語字幕ではその部分がそのまま「日本人」と訳されていた。ここってそんな風に訳してしまってはまずいんじゃないか。上映終了後のアセンブリーでは「日本人とはだれのことなのだろうか」というような質問が用意してあったし、映像をつらぬく主題としても、「日本人」とは、カテゴリーとは、共同体とは、という部分に対する疑問や問題提起があるように見えた。にもかかわらず、この訳をが字幕として載っていたことがわたしには不思議でならなかった。どうしてだろう。

教師に指摘されたことで日本語を話さなくなったクリスチャンの祖母(レイ)
日本語教育学会に持っていったらどうなるかな。というのは冗談だけれど。第二次世界大戦時の日系人排除によって、クリスチャンの祖父母はもともと住んでいた場所を追われ、強制収容所に移された。かれらはふたりともアメリカ生まれアメリカ育ちだったが、「日本人」であることを理由に排除された、という出来事をきっかけに自らを「日本人」だと思うようになっていったという。そのあとの詳しい経緯は忘れてしまったけど、なんやかんやあってアメリカから日本に派遣されることになった。ふたりにとって、ある意味故郷ともいえる日本で、レイはとある教師に彼女の話す日本語は"farmer Japanese"であると指摘される。そして、その指摘をきっかけに彼女は日本語をあまり話さなくなってしまう。彼女にそんな指摘をした教師は本当にくだらないし大嫌いだけれど、たぶんその教師は「よかれ」と思ってその指摘をしている。「正しい言語」を決定できる「教師」という存在が持つ「権威」。「正しい」日本語を教えてあげようという「やさしさ」からの指摘なのかもしれない。なにより、その教師みたいなひと(教師ではなくてもいい)はたぶん今の日本にもごまんといる(日本だけじゃないかもしれない)。こんな教師の指摘によって自分のことばを失ったひとは少なくないんじゃないだろうか。なんて、そう思うのは日本語のクラスで権威を(半分無意識に)振りかざす教師を目の当たりにしてきたからだろうか。けれど、わたしもまたそのくだらない教師が持っている考えの枠組みを、自分のものとして持っていることを自覚している。「言語」と「正しさ」との関係、バランスについてはまだ考え切れていないなとしみじみ思ってしまった。わたし自身の経験に直接的にかかわることだから、余計敏感に反映してしまうのかもしれない。

Cultural studiesと出会って息をする場所をみつけた、と言ったウヒ

思わず泣いてしまったシーン。ああ、ウヒはわたしだなあと思ったりしてしまった。ホール・スチュアートのアイデンティティに関する論考を見つけたときの感覚に似ているかもしれない。うまく説明できない。

I don't want to deny anyone. というウヒのことば

例えば、朝の電車で知らないおじさんが思いっきりぶつかってくるとき。わたしの場合、一瞬怒りを感じるものの、それは徐々に驚きやある種の同情に変化していく。基本的には性善説に基づいて生きている/生きていたいから(仕事中はそうでもないかもしれないけど)、どんな人でもその人なりの事情があるんだと考えるようにしている。なるべく。思春期を迎えた娘に「クサイ」と言われて朝からヘコんでたのかなとか。まあ、ほんとうはそういうことがあっても、人にぶつかっていくべきではないけど。

自分から見えるひとつの側面やある1点だけで人を判断したくないし、その点だけですべてを否定したくない。ウヒが言ったのは少し違う文脈だったから、彼女のことばを勝手にわたしの文脈で読み替えてしまったかもしれない。

しぶんを語る言語がみつからないと話したウヒ

ウヒが自分を紹介する部分を見逃してしまったことが惜しい。日本語と韓国語と英語があって、それぞれがたぶん彼女にとっては家族のだれかと繋がることばだった。(おばがアメリカに住んでる)台湾文学をちょっとだけかじったときに出くわした、日本の植民地であった時代の台湾の作家たちのことを思い出した。日本語で教育を受けたかれらだから、台湾のさまざまな風景や事象を描くのに日本語を使う。それはつまりどういうことなのか。

 

 

上映のあとに、「アセンブリー」という感想を共有しあう場があった。最初は社会学の研究者がいるテーブルに座っていたけれど、人が増えすぎたので自由に感想を語るテーブルに移動した。作者である田中功起さん、こないだまでヨーロッパにいたひと、エキストラで参加したひと、わたし、同じくエキストラで参加したひと(だったかな?あいまい)、映像作品をつくっている高橋耕平さん、友人に紹介されてきたひと、友人に紹介されたひとの友だち、演じるひととして舞台に立ってきたひと、あわせて9人。この9人で映像について話した。
どうして上映会に来ようと思ったのか、という質問から始まった。そして、それぞれのリズムでぽつぽつと、感じたことや考えたことを話す。この感じ、好きだなあと思いながら、話す人をじっと見つめながらそのことばを聞いていた。考えたことや話したことにまとまりが全然ないから、長さも文章の終わり方もばらばらの箇条書きのまま載せちゃう。

・クリスチャンはウヒの感じとっている世界を理解しているようで全くしていない。いつも数センチ的外れなことば(慰めのような何か)をウヒに投げかけている。(わたし)→ノッテルダムで上映したときには、クリスチャンの無理解さに怒っていた香港のひとがいた。ヨーロッパでは社会階層の差が大きいために、いわゆる「上流」といえる階級に属しているクリスチャンには、ウヒが感じるような事柄を感じる機会がなかったのかもしれない。(田中さん)

・友だちの何人かを思い出しながら話を聞いていた。在日コリアンの3世だか4世だけど親戚以外にコミュニティへのつながりはなく、また関心もない。在日コリアンの歴史についてもあまり知らないようだし、興味もない。誰もが知るような大企業に勤めているが、日本の名前に日本の国籍だから、会社でそのひとが「在日コリアン」だと知るひとはあまりいないかもしれない。わたし自身が高等教育を受けたひとだから、まわりにそういうひとが多くなるんだろうけど、階級だけではなく、住んでいる場所の差とか、受けてきた教育の差とか、望む望まないにかかわらず「祖先」についての知識(や関心)の差とかによって、たぶんそのあたりの考え方ってものすごく違う。
・東京と地方という断絶をどう受け止めればいいのかわからないままでいる。
・信条が合わないひととの個人的な対話はどのように行うべきか。そもそも行うべきなのか。精神衛生的には避けたいけれど、良い社会なるものをつくるためには必要だと思っていて、矛盾していることを自覚しながらずっと葛藤している。これからもたぶん葛藤することになる。

・わたし個人の幸せと、わたしが幸せになるための社会。それは相反するものなのだろうか。
・じぶんをマジョリティと信じられることの傲慢さ。一方でそう信じられるひとたちのことをどこかうらやましく思うわたしもいる。じぶんがマジョリティであることが申し訳ないなんて言ってしまえるひと、じぶんが「マイノリティ」にカテゴライズされるなんて考えたこともないようなひとは、言い換えればつまり「おまえは何者なんだ?」と問いかけられる場面に遭遇したことがないひとである、ということだと思うから。
・撮ること、表象することのの暴力性について、田中さんはどう考えているんだろう。(わたしは「表象すること」に対してつよい欲望があると同時に、そのことをすごく恐れてもいる)
・映像があまりにも「綺麗」すぎると思った。

在特会のことはずっと知っていたし、嫌悪してきた。けれど、映像で見るのは初めてだった。耳をふさぎたくなる罵詈雑言。何かきっかけがあるわけでもない赤の他人に対して、激しい憎しみを何の臆面もなくぶつけられるかれらに、予想していたとおりの恐怖を感じた。けれど、一方でかれらをそのまま断罪してしまうのも憚られた。こういうとき、わたしはいつも葛藤してしまう。かれらの行動は許されるものではないからと、かれらを掃いて捨ててしまうべきなのか、それとも、かれらがこのような思想を抱くに至るまでのプロセスに想いをめぐらすべきなのか。

ハラスメントで笑いを取ろうとする「偉い人」っていつになったらいなくなるかな

会社の管理職と若手数人とで、話しながら互いの考えを知り、若手は自分の今後を考える機会とする、というような趣旨のもとに開かれた食事会に参加したときの話。会社のコンプライアンスの窓口に連絡したほうがいいのか今も迷っているけど、それほど「重大な」問題なのかと自分に問いかけている部分もある。たぶん大半の人はこの先に書いてあることを読んでも「大したことじゃない」と言うと思うし、わたしもこういうのを目にしたのは別に今日が初めてじゃない。でも、やっぱり変だと思ったし、気持ち悪いと思った。何より、これは将来的に会社にとって不利益になり得ることだと思った。たまたま顕在化していないだけで、ある意味でこれは会社のリスクなんじゃないかと思った。

ざっくりまとめると、管理職のおじさん(別におばさんでもどっちでもないひとでも同じことが起きてたかもしれないけど、今回はたまたまおじさんだった)が、かつて「それはハラスメントになり得ると思います」と指摘された行動について、「こんなことまでハラスメントだって言われたらどうしようもないよね」と、若手であるわたしたちに同意を求める、ということがあった。同調してもらって安心したのか、そのあと、わたしたちとのやりとりの中に何度か「あ、いまのパワハラじゃないからね」という余計なひとことを挟んで「笑いを取ろう」としていた。

楽しそうに「これはパワハラじゃない」と「冗談」を言って笑うおじさんと、ははは、と同調する他の若手をわたしは終始仏頂面で見守っていた。ほんとはその場で「いや、」と言ってケンカをふっかけるべきだったのかもしれないけど、そんな勇気も気力もなかった。わたしにできる最大の抵抗が仏頂面だった。

気になってあとで調べてみると、おじさんが指摘されたと言っていた言動は、たしかに「セクシャルハラスメント」(性別を理由に差をつける発言)に分類されることがわかった(わたしの会社において)。窓口に通報したらアウトになってしまうような言動を通報せずに、その場で指摘するに留めてくれた相手におじさんはまず感謝するべきだったんじゃないだろうか。そのうえで、おじさんが本当に伝えたかったことを失礼の内容に相手に伝えるためにはどうするべきかと聞くなりするべきだったんじゃないだろうか。その場での詳しいやり取りは聞かなかったのでなんとも言えないが、わざわざ若手のわたしたちに同意を求めてきた意味は全然わからなかった。なによりそのあとの「ハラスメントじゃないからね」という茶化しに気持ちが無になってしまった。

その「冗談」ほんとうにおもしろいと思って言ってる?

これまで世間一般的に許されていて、何の問題もないと思っていた出来事や考えが「ハラスメント」だと規定されてしまったことに面食らったとか、自分としては気を遣っただけなのに「ハラスメントになり得る」と指摘されてショックだったとか、そういう理由で愚痴もこぼしたくなってしまったのかもしれない。だけど、そういうことを思ったとしても、少なくともそれはこういう場面で若手に言うべきことではないと思った。役職に関係なく対等な人間として付き合うことができる環境があらかじめ構築されているとか、そもそもおじさんがその場の若手の今後に関係が薄い人間であるとか、そういった前提条件があるのであればまだ良かったのかもしれない。だけど今回の食事会にはどこか「偉い人のありがたいお話を聞かせていただく」というような空気が漂っていたし、そのおじさんはその場にいた若手の将来に関わってくる可能性が十分にある人物でもあり、よっぽどの勇気がなければ、若手がおじさんの意見に異を表することはできない雰囲気になっていた。

こんな「ちっぽけな出来事」にいちいち仏頂面を浮かべてしまうわたしは社会人失格とか言われちゃうんだろうか。仏頂面を浮かべると同時に、本当はすごく興味を持っていたおじさんだったのに、いっしょに仕事をしてみたいとあんまり思えなくなってしまったのが悲しかった。今回の出来事だけで人を判断するのはあまりにも短絡的だし、結果的にわたし自身の可能性を狭めることになるのかもしれないけれど、個人的に抱いていた尊敬みたいなものがそのやり取りだけでガーンと下がってしまったのは否めない。

余計なことを考えがちな性格をしているので、もしわたしがお客さんだったらどうするんだろうとかいうことも考えてしまった。お客さん側にわたしと同じようなことを感じる人がいないとは限らないじゃないか。 いやでもさすがにお客さんの前ではそんなこと冗談でも言わないか。とかうんうん考えていたらちょっと悲しい推論にたどり着いた。お客さん側で意思決定を行う人たちもそういう「冗談」を面白がれる人たちなのではないか。社内全体あるいは意思決定層において共有されている価値観や倫理観、ふだん問い直されることがないそれらが「商品」というようなかたちで具現化された場合にだけ(さらに言えば顧客からの指摘で「炎上」したようなときだけ)、それまで当たり前だった観念を批判的に見つめなおすというような動きがわずかに起きる、という仕組みになっているのかもしれない。とすれば、「商品」というかたちで具現化されない場合、そういった思想や観念はコミュニティの中では維持され続けていく。少なくとも日本では大いにあり得るだろうなと思ってしまった。ハラスメントについてちょっと知っているつもりになっている自分をアピールするために「ハラスメント」で笑いを取ろうとするやっかいな人たち。

会社の集まりだったこともあったせいか、ひとりの人間として、というよりはビジネスの最前線で創造だ最先端だと言ってる人がこれなの?とすこしばかりショックを受けてしまった(こじつけかな?)。今後も日本だけで閉じたビジネスをするのであれば、別にその考えや態度を変える必要はないのかもしれない。そうやって若手に愚痴って笑い話にしてればいいのかもしれない。だけどわたしの会社が見ている方向は日本国内じゃないはずで、なのに、こんなことを考えたりしないといけない状況に出くわしたことがただただ残念だった。

ごはんはすごくおいしかったんだけど。

おわり

 

190201 日韓女性とフェミニズムの現在地@本屋Title

なかば無理やり仕事を放り投げて、『82年生まれ、キム・ジヨン』の訳者である斎藤真理子さんと、『私たちにはことばが必要だ』の訳者であるすんみさん、小山内園子さんのトークイベントに行ってきた。

www.title-books.com

『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んですぐ『私たちにはことばが必要だ』を読んだ。手のなかにちょうど収まるくらいのサイズで、文章も難しくない。見た目もかわいいし、中身もだいたいのことは大切なことだからと思って、中学生の頃から仲良くしている友だちにクリスマスプレゼントとして送ったりもした。

けれど、『私たちにはことばが必要だ』を読んだときに、思わず眉をしかめてしまう箇所があった。わたしがカテゴリーなるものを嫌悪しすぎていることも、わたしが眉をしかめてしまった理由のひとつだとは思うが、その箇所の数十文字にわたしは疑問を感じながら、言語学者である筆者がそのように書いてしまった背景を推測したりしてひとまずは受け入れようとした。でもやっぱり、すこしうんざりして、かなしくなってしまった。

p.17「女性として生まれたわたしたちはすでに直観を持っています。」

女性として生まれていないけれど、後天的に女性となった人たちは「わたしたち」には含まれないのだろうか。そもそも、わたしたちは女性として生まれるのだろうか(これは反語。かのボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのである」と言っていた)。女性に生まれるとはどういうことだろうか(インターセックスの人たちはどうなる?)。そもそも女性とはだれのことを指しているのだろうか。どのようなひとを女性とわたしたちは言うのだろうか。

たった1行の記述にげんなりしただけで読み進めるのをやめてしまうのも惜しいと思い、最後まできちんと全部読んだ。ところどころ、やっぱり眉をしかめてしまう部分はあった。だけど、対話をする気のない相手に対して、無理にことばを尽くして理解してもらおうとする必要はない、というメッセージは、対話にまじめすぎる部分があるわたしにとっては、ある意味救いだった。(対話をする気のない相手もまた巻き込むことができる策を考える必要もやっぱりあるのではないか、というようなことを思わないではないけれど)

だけれど、これはほんとうに「女性」というカテゴリーに属する自分に違和感や困惑をおぼえたことがない人が書いたのだな、とも思った。フェミニズムはもちろん「女性に対する抑圧への抵抗」というところから始まっているのだと思うが、バトラーしか読んだことのないわたしからすると、フェミニズムとは「男性」と「女性」という二元論的な対立をことさら取り上げるというよりは、制度的な権威を疑うものであり、現存するカテゴリーそのものに対する疑いを呈するものであるように感じられる。だから、実は、「女性」と「男性」というのはそこまで意味をなさないのではないか、とすら考えている。権力の座についている人々がたまたま「男性」というラベルを貼ってもらえた人々である、というだけのことなのではないか、とか。

フェミニズムについて関心を持ってはいるが、これまでの歴史的な経緯はほとんど学んでいないので、上記の事柄については入門書を読む必要があるんだと思っている。だけど、違和感としてあるのは、フェミニズムは決して「女性」と「男性」、あるいは「被害者」と「加害者」との間の断絶を深める何かではないのに、なんとなく、今回のイベントでの語られ方や、日本での#me too運動は、フェミニズムと言いながらも、なぜか両者を分断する方向に進んでいるような気がすることだ。

イベントの後半に設けられた質問のコーナーでも、そこには「男性」と「女性」しかいないかのように、両者は対立する二項であることを前提に話が進んでいって、なんとなく居心地が悪かった。「男性の方も来ていますが、質問とかありませんか?」と、訳者のひとりが好意的にほほえんで会場を見まわしたとき、「見た目」でそのひとの「性*1」は簡単に判断できるということが不問の前提となっている状況に、猛烈な違和感をおぼえてしまった。クィア理論の講座に参加したときに、「見た目」からその人の「性」を言い当てることは不可能であり、それほど意味があるわけでもないという状況を経験したからなのかもしれないけど。

イベントの雰囲気はすごく素敵だったし、たくさん考えることもあったけれど、イベントのタイトルにあるような話があの場でなされたとはあんまり感じられなかった。うーん。

イベントのときに書き留めたいくつかのことばと、それについての現時点で考えていること&役に立ちそうな文献(have to readという意味で)。

・女性は家族から自由なのか? →Romantic Love Ideologyと関係がありそう。あと国家的な戦略とか政策とか。牟田和恵(1996)『戦略としての家族―近代日本の国民国家形成と女性』あたりを読めばいいのかな。

・兵役という人生に組み込まれた「暴力装置」 →何人もの韓国アイドルの兵役を見届けてきたけれど、「真男子(サンナムジャ)」ということばもあるように、韓国国内における兵役と「男性性」の獲得みたいなものって、わたしが思っているよりもずっとずっと強く結びついているのかもしれない。たぶんセジウィックの『男同士の絆』を読んだら多少は考えが深まる気がしてる。

 

『私たちにはことばが必要だ』には、「女性」だけではなく、何らかの抑圧や差別を受けているひとが、自分の精神を消耗しすぎないようにするためのTipsがたくさんつめこまれている。だけど、他者と自分は同じ人間ではないからそもそも理解しあうことは不可能であること、それでも自分ではない誰かを理解するために対話を試みることは必要であること、というような考えを大前提にしたうえで、それらのTipsを使うべきだとわたしは思う。今度書こうと思うけれど、おそらくわたしは、自分が「加害者」にならない保証はない(というかむしろ何らかにおいては加害者である)と考えている。そして、「加害者」になったとしても、なんらかの償いをすれば、許される世界であってほしいのだと思う。

違和感ばかりつづってしまったけれど、お正月に書いた関ジャニ∞クロニクルについての文章がびっくりするぐらいたくさんの人に読まれて、「生きづらそう」とか「考えすぎ」とか、わたしと対話を求めているわけではないことばを知らないひとから無遠慮に投げつけられたときに、問答無用で片っ端からスルーすることができたのは、この本を読んでいたからだった。その点に関しては、めちゃくちゃ実用的で、読んでおいてよかった本だったと思っている。

おわり

*1:「セックスは、つねにすでにジェンダーなのだ」というバトラーのことばに影響を受けすぎてジェンダーともセックスとも書くことができずに「性」とかいう謎の単語を使ってしまった。

雪の夜に書くようなことでもない

毎日、わたしの人生にとってほとんど意味をなさない労働をしている。これでお金がもらえるなんて、世の中奇妙なもんだなと思いながら、意味のない数字をつくりだしている。誰かを分かったようにさせるかもしれないけど、ほんとうは全く意味などない羅列をつくっている。

なにがきっかけなのかあまりはっきりしないけど、きょう、久しぶりに深呼吸がうまくできなくなった。修論を書いてたときぶりぐらいで、我ながらびっくり。いま自分がしている作業は、ゲームをクリアしていくような感覚はあっても、特に楽しいわけでも意味があると思えるわけでもない。ただ、自分のからだやこころに対しての負担はそれほどないと思っていたから、長い息をうまく吐ききれないほどのストレスになっていることには正直驚いた。ろくな食事もとらずに部屋中に紙と本を散らかして、毎日泣きそうになりながら延々と論文を書いていたときのほうが、体力や精神的な面では絶対苛酷だったのに、それと同じくらいのストレスを感じているらしい自分に、驚いている。

いまわたしがつくっている数字に、たぶんそんなに意味はない。でもそれがあの場所ではたしかに「役に立つ」何かとされていて、それをつくっているわたしは、それをつくることでお金をもらっている。みたいなことを考えてたら、「役に立つ」ってなんだろうというありふれた問いにたどり着いた。

「役に立つ」と言う/言われるとき、それは「客観的」な価値判断とされる。「役に立つ」ことは、まるで不変の真実のような何かみたいに扱われる。その一方で「役に立たない」とされた何かは切り捨てられる。でも、「役に立つ」か「役に立たない」かという判断がいつも変わらずに同じままでいる、なんてことは絶対にない。それは、判断する人、場面、コミュニティ、時代、その他もろもろによって変化する。たとえば、わたしにとって、わたしがかつて属していたコミュニティにおいて、哲学の実践やそれに関する知識はめちゃくちゃ役に立つものだったけど、全くそうではないと判断する人がいること、全くそうではないと判断する場所があることを、わたしは知っている。

そもそも「役に立つ」と「役に立たない」はどちらも物事の属性ではなくて、あまりうまくいえないけど、あくまでも「役に立つから~しよう」「役に立たないから~しよう」という、その次のステップみたいなところのために、対象に無遠慮に貼られるラベルなのかな、というような感じがする。

九大の講師の件とか、最近は研究者の自殺や生活の困窮についての話題をぽつぽつ見かけてしまうことがあって、そのたびに悲しい気持ちになってしまう。わたしのなかでは「役に立つ/立たない」とつながっているところがあって、きっと、とてつもない苦労をして己と向き合いながら新たな知見を生み出したであろう、いまのわたしが生み出している数字なんかよりよっぽど「役に立つ」(とわたしには思える)何かをこの世に生み出したであろう人たちが、無意味な数字の羅列を生むだけのわたしよりも少ない賃金しかもらえず、生活に困窮してしまうのはなぜなんだろうか、というようなことを考えてしまう。ついにはこの世界を捨てることを選ぶほどに追い詰められてしまうのは、どうしてなんだろうか、と考えてしまう。かれらはもうひとりのわたしで、わたしはかれらになりたかったけれど、かれらになるには、わたしの度胸と貯金、そして将来の見通しがすこし、いや、あまりにも足りなかった。(でも、いまは、かれらになるという選択を捨てる要素となった事柄すべてがわたしの責任だとは思わない。)

より多くの賃金をもらっているから、それが「役に立つ」何かなのだという等式はまったく成り立たない。そもそも「役に立つ/立たない」というのが、絶対的な判断基準ではないのだから、それは至極当たり前のことだとも思うけど。

お金の話になったのは、お金が評価と直結するように思えるからかな。急に文章が失速してきてる(眠い)。ちゃんとした長い文章を考えて書くのって大変だな。頭からこぼれる文章を拾うだけなら簡単だけど。

あしたも無意味な数字の羅列をつくる。そう書くとなんかやな感じだけど、別に自分の現状を嘆いているわけではない。でも、これは無意味だ、と、思えるままでいたい。

おわり

190119 カタストロフと芸術のちから展

京都におけるドラァグクイーンエイズに関する活動について、「クロニクル京都1990s」という小さな展示をやっている、と小耳に挟んで慌てて訪れた森美術館。クロニクル京都1990sだけのための入場チケットはなかったので、カタストロフと芸術のちから展もいっしょに見てきた。結果から言えば大正解で、あまりのボリュームと内容の濃度に、もっとはやい時間から見に来ればよかったとちょっと後悔。

さまざまな媒体で「カタストロフ」を表現した作品が展示されていたが、アイザック・ジュリアンの映像作品が心臓にズドンと来た。
 

www.mori.art.museum

全部で5つの作品が3面の巨大なパネルに投影される。「2008年に起こったアイスランドの金融バブル崩壊により全てを失った写真家」と「子供の養育費を稼ぐためにドバイでメイドとして働くフィリピン人女性」についての映像作品が特に好きで、苦しかった。

映像を見た順番もたぶん関係しているし、東京都でバンクシーが見つかったとはしゃぐ政治家のニュースからもどこか影響を受けている。わたしが作品の部屋に入ったときは、2008年のリーマンショック後、美術品に対する投資の増加を美術館のキュレーターらしき男性が、あなたたちには無限のチャンスがあるのですとでも言うかのように陽気な声音で語る映像から始まった。「200万ドルで購入した絵画が4000万ドルに!」 夢があると感じないわけではなかったが、大した資産を持っているわけではないわたしにとって、それは縁遠い話にしか聞こえなかった。生活の維持に不可欠なわけでもない絵画の購入に200万ドルをポンと出すことができる人間がこの世界はたしかにいるのだなと、毎月の手取りと税金を思い浮かべながらどこかむなしい気持ちになってしまう。

どの作品がより高値で売れるのだろうか、ということを考えて芸術を評価すべきなのだろうか、というありふれた疑問も浮かぶ。いや、わたしはそれを拒否したい。けれど、より高値で売れる作品を予測することは、つまり、数年先、数十年先において重要とされる価値観やセンスを先読みしようとすることでもあるだろうから、それはなんだか悪いことではないようにも思える。だけどなんでこんなに抵抗があるのだろう。なんとなくムカつく。価値が上がりそうだから所有してから売却するということの、たぶん、「売却する」部分にムカついている。所有するなら好きを理由にしてほしい、手放すなんてしないでほしい、みたいな、身勝手な考えから来てるのかもしれない。

メイドとして出稼ぎに出てるフィリピンの女性についての映像は、先輩が研究対象としていた技能実習生のことを思い浮かべながら、身近な友人たちの母親を思い浮かべながら、見ていた。だだっ広くて無機質な感触がするきれいなオフィス。暗闇にキラキラした光をまき散らすビル群。メイドとしてそこに通う彼女が住んでいる場所は、砂埃が舞う団地。貧富の差。いわゆる「富裕層」にわたしが属していたなら、こんな苦い感情は持っていなかったかもしれない。所有する財が異なるだけで、人間としての尊厳が無邪気に踏みにじられること。映像のなかにあらかさまにそれを示す内容はなかったが、彼女が涙を流しながら「私は強くあらねばならないのです」と口にしたときにふとそんなことがよぎり、心臓がぎゅっと縮んで息苦しくなった。あのキラキラした光は、彼女のような階層にいる人々に対する搾取から成り立っている。わたしは搾取する側にいるのだろうか。搾取される側にいるのだろうか。ひょっとすると、どちらわたしはそのどちらでもあるのかもしれない。

映像を再生していた部屋の奥は一面窓になっていて、大きな窓からはキラキラした東京の夜景が広がっていた。その様子は確かに綺麗だった。けれどパネルに映し出された映像と窓の外はひと続きになっているように思えて仕方がなかった。わたしは何度も窓の外に目をやった。いまわたしが見ている作品は、たしかに別の場所で起きている別の物語だけれど、いまわたしが居る「ここ」がその物語から全く無縁はということは決してない。

もうひとつ、印象に残った映像作品がある。

田中攻起  2017 一時的なスタディ:ワークショップ #7 知らないことを共有し、いかにしてともに生きるか(Day9のみ) (Provisional Studies: Workshop #7 How to Live Together and Sharing the Unknown (Day 9 only))

最初から最後まで見ることができなかったので推測になるが、たぶん、バックグラウンドを異にするドイツ在住者たちによって行われたワークショップの様子を撮影したもの。映像がいちいち綺麗でよくできたドラマのようだったけれど、意見の衝突がそこかしこで小さく爆発する。かつてわたしが好んで出席していた哲学的対話のクラスみたいだと思いながら、地下駐車場で円になってお互いの考えを語り合うかれらの姿を眺める。

アメリカからドイツに移住してきたらしい黒人の女性(40代~60代くらい、青いターバンを巻いていたので、ひとまずブルーと呼ぶことにする)が議論の中心になることが多かった。彼女が奴隷制について話すときの、ほかのメンバーとの温度差が、ソファに座って画面を見ているだけのわたしにまで伝わってきた。ブルーが話せば話すほど、彼女自身の経験や意見をとうとうと述べるほどに、まわりはなぜか白けていく。すぐ隣に座っている若い女性(肌はすこし浅黒くて、イスラム系? 黒い服を着ていたのでブラックと呼ぶ)は、呆れているのか、ブルーをなだめようとしているのか、そのどちらとも取れるような「やさしい」口調でブルーの意見を受け入れる。「尊厳 (dignity)」について、ブラックは、当たり前だというように、それはみなが持っているものなのだと言う。しかし、ブルーはそれを否定する。生まれたときから「お前には価値がないのだ」と吹き込まれ続け、「主人」と目を合わせることを禁止され、鞭で打たれ、「家畜」のように扱われた人間が「尊厳」を持つことは不可能なのだと、どこか激しさを抑えられない様子でブルーは語る。

「それはそうだと思う。だけど」

ブルー以外の人はどうしてこんなに逆接をくっつけたがるかな。映像を見ながらそんなことを考えていた。たぶんブルーが言わんとしていることは、ワークショップのメンバーや映像を見ているわたしたちの誰にも完全には共有され得ない経験だ。そもそもわたしとあなたは別の人間で、同じ経験をしていないし、似た経験をしていたとしても、人生のなかでそれをどのように位置づけ意味づけているのかはきっと異なっている。当たり前の前提がここでまた蘇る。ブルーは、言い方を変えて同じ話(奴隷制という過去と、人間としての尊厳の関係について)を3回か4回繰り返した。4回目あたりにブルーが発したことばでワークショップのメンバーの態度が少しだけ変化する。

「尊厳を持てるのは、大人になる過程で、尊厳とは何か、ということを教えられた人だけ」

「尊厳」は人間であればみな持つことができる、あるいは、すでに持っている。その考えはたしかに理解できるし、わたしも同意する。けれど、たしかにブルーが言ったように、そもそも「尊厳」という概念(べつに単語を知っていなければならないというわけではない)を知らなければ、「尊厳」を持つことは不可能なのだ。

伝わらないことを伝えようとして怒ったり戸惑ったり呆れたりするブルー。彼女の姿にたぶんわたしは自分を見ていた。ブルー以外のメンバーの困惑や呆れ。ブルーに対してのブラックの様子は「わかってないなあこのオバサン」とでも言っているかのように見えたけれど、一方でどうしてわたしは彼女がそう言っているように感じてしまったのだろうか、ということも考えてしまう。

展示されていたほかの写真や絵画についても言及したかったけど、この2作品のインパクトとボリュームがあまりにも大きすぎた。そして、アイザック・ジュリアンも、田中攻起も、割と本気で追っかけていきたいなと思ったりした。ひとまずアイザック・ジュリアンについて簡単に調べてみたら、ポストコロニアル理論とかホールの話をしててちょっとだけわくわくしてる。ただ、同じポストコロニアル理論でもそれを論じる人がいわゆる西に属するのか、それとも東に属するのか、同じ移民でもその人の階層や育ってきた環境がどのようなものだったのか、同じ芸術家(アーティストのほうがしっくりくる?)でもその人が「正統な男性」かそれ以外か(「男性」と「女性」、としなかったのは意図的)で、いろんなものの見え方はずいぶん違ってくる。アイザック・ジュリアンや田中攻起はどこに位置づけられる人なのだろう。そして、かれらは自身をどう位置づけて作品を作っているのだろう。考え出すときりがない。

見たあとにもやもやして引きずる作品は良い作品だと思っているから、めちゃくちゃもやもやさせられた上記2作品は時間をかけてじっくりゆっくり消化していきたい。あと、これまで「芸術家」とされる人たちへの向き合い方みたいなの、全然考えたことなかったけど、ちょっと考えてみたいなと思ったりした。向き合い方、というかその人の作品を解釈するときに、作者がどのような人物であるのかについてどれくらい考慮すべきか、という問題かも。

クロニクル京都1990sについての話全然できずに終わっちゃった。(つかれた)

おわり

1月9日 クィア理論講座のメモと考えたこと

第6回 国境を越えるトランスの冒険 日本におけるGID医療・法とその陰画

1. 日本における性同一性障害医療・法制度の成立

日本では、1950年代~1960年代にも性転換手術(性別適合手術)が行われていたが、「ブルーボーイ事件」が性転換手術を非合法と考える根拠となり、手術はアンダーグラウンド化。1998年に埼玉医科大学によって行われた性転換手術が初めて公に行われた手術とされることに。「性同一性障害の性別の取り扱いの特例に関する法律」が2003年に成立するも、その基準には問題も多い。

2. GID規範の批判と「トランスジェンダー」の概念

GID: Gender Identity Disorder

GID規範、正当なGIDという言説。ある一定の基準たちを満たしたときに「認められる」。精神科医などにより診断カテゴリーとして付与される「GID」に対し、男/女という二元論から脱しようとする概念としての「トランスジェンダー」。医師(権威を持つ)によってGIDと診断される「患者」と、トランスジェンダーという「生き方」を選択する人々。両者に対する社会的なまなざしおよび制度的な充実の隔たりは大きい。国際的にはトランスジェンダーの脱(精神)病理化が進んでいるが、日本ではGIDアイデンティティのカテゴリーと考えることは可能かどうかといった議論がなされるほど定着した。

3. GID言説の陰画としての「非正規」医療

ブルーボーイ事件」が「正規」医療と「非正規」医療を分かつこととなった。タイでの「非正規」医療行為を受けた経験を「楽しい」ものとして語られるのはなぜか。医療ツーリズムについての考察。

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最後の項目だけあんまりまとまってないしなんかあっさりしすぎてる~。前に北京で男性同性愛者のおじさんたちがしゃべるイベントのときに、「一時期トランスジェンダーやってたけど」みたいな話をしていたのに驚いたことがあったけど、わたしはたぶん「性同一性障害者」と「トランスジェンダー」とを同一視してた。「性同一性障害者」って言い方がいまいちなのも今日はじめて知った(WHOがトランスジェンダー精神疾患とみなさないという声明を出したそう)。

「性別違和」って言うならわたしも多少は「性別違和」かも。こないだコムアイが「両性具有にあこがれる」って言ってるインタビュー読んだけど、なんとなくその感覚がわかる。わたしはわたしが、一般的に想像される「女性」というイメージからはいくらか距離のある存在だからだと考えているからかな。日本における「女性」のイメージだけど。(わたしが決してなることができないイメージだから、わたしはそのイメージが存在することをたぶん嫌悪している)

こないだ『82年生まれ、キム・ジヨン』の副読本的な感覚で読んだ『私たちにはことばが必要だ』。くだらない反論は無視しても良いとか、なんというか、日常生活における徒労を避けるためにはすごく必要なことがたくさん書かれていて励みにもなったけれど、「女として生まれているからわたしたちには『直感』がある」といったような記述には見慣れた違和感があった。「女として生まれて」いない場合は? 後天的に女の体を持った場合は? 男の体を持っていればすべて無関係の問題なのか?「国家」という制度のもとに、「純粋な存在」たり得ないわたしは、たぶん「性別」という制度のもとで同じく「純粋な存在」たり得ない何かを考えようとしてしまっている。

そういう意味で、「トランスジェンダー」(あるいはクィア理論?)はなんとなく安心できるのかもしれない。安心できるってなんだろうとも思うけど。それは白黒ハッキリさせようとしないものであるような感じがする。でも、まあ、トランスジェンダーという新しい名前がついた時点で、そこにはトランスジェンダー以外が規定されるから、カテゴリーとなっていくことからは逃れられないんだろうなとも思うけど(もうなってるのかもしれないけど)。カテゴリー大嫌いなのにカテゴリーの話するのほんと大好きだな。

GID医療についての議論みたいなのを聞きながら、なんとなくGID医療って帰化(あるいは国籍の変更)と似ていると思った。そしてそれは在日コリアンの2世とか3世あたり(目安)が置かれた状況に似ているとも思った。日本社会の正当な一員としての自身をさまざなま書類によって証明し、制度のもとで帰化という手続きを経て「日本人」になる過程。思い出すのは松田優作。ある性別に属する正当な一員としての自身をさまざまな書類や医師の診断によって証明し、制度のもとでGID医療(その最終段階としての性転換手術)という医療行為によって「男/女」になる過程。 似ているような気がするからって、安易になんでもかんでもつなげて考えようとするのは良くないのかもしれないけど、自身がある集団(あるいはカテゴリー)に属する正当性を証明するための「必須」手段と考えられることが多いという点で、両者は似ているような気がした。

ただ、自分自身にとって、人生において実用的な理由や利益のためにその手段を用いるのか、という点では状況が異なるのかもと考えたり。ずっと日本に住んでいるから、海外に行くときにビザがいらない国がめちゃくちゃ多いから(ほんとに便利)とか、そういった実用的な理由、「アイデンティティ」に関わらない理由で帰化をする人って、多くもないけど少なくもないと思っている(だからと言ってそれらが日本におけるレイシズムの影響を全く受けないわけではないと思ってるけど)。日本でも。一方で、「アイデンティティ」から完全に切り離された、実用的な理由のみでGID医療を行う人はそんなにいない、ような気がしている。わたしのまわりにそういった人がいないってだけなのかもしれないけど。

あ、1時間に設定していたラジオのタイマーが切れちゃった。言語が先なのか、概念が先なのかみたいなこと考えたかったけどもう眠い。

おわり

関ジャニ∞クロニクルで新年早々めちゃくちゃ不愉快になった話

めちゃくちゃわかりやすいタイトルをつけた。お正月、なんとなくザッピングしていたら偶然関ジャニ∞クロニクルのスペシャルが放送されていたのを見てしまい、その内容があまりにも不愉快で不適切だったので、こうやって三が日からブログを書いている。西武・そごうが出した女性差別についての広告が「何か言っていそうで何も言っていない」コピーと主題にちっともふさわしくない謎の写真によって、広告を打ち出した人々が問題の本質についてまるで考えていないことを露呈させてあちこちで議論を巻き起こしているみたいだけど、それでもあの広告は「女性に関する事柄について、何かしら考えていますというポーズを取ろうと考えた、あるいは取る必要があると考えた人たちがいる」という事実から生まれているという点だけで評価できるのではないかと考えちゃうくらい、元旦のクロニクルはお粗末な内容だった。ひどい言いよう。でもそれぐらいひどかった。

元日に放送された関ジャニ∞クロニクルのお正月スペシャルでは、「おひとりさま」という企画がその95%ぐらいを占めていた。ふだんの土曜日昼の放送では、メンバーの丸山くんが単独でロケに出かけ、ほかのメンバーはスタジオで丸山くんのロケVTRを見ながら、丸山くんの出題するクイズに答えたり、丸山くんの絶妙なコメントや行動にツッコミを入れたりする「ゆるい」企画だった。スペシャルでは丸山くんだけではなくメンバー全員がロケに出かけ、深夜の街で「おひとりさま」の女性に対して、とても個人的な質問をぶしつけに投げかけるというような企画になっていた。

何が問題か。

深夜ロケがダラダラと続くだけで緩急がほとんどないこと、タレントの面白さを生かしきれていないこと(過去のクロニクルの他企画と比べて)、安田くんの体の状態に対して適切とは言い難い企画であったこと、タレントを侮辱することで笑いを取る時代遅れのスタンスを平成も終わる今もなお取り続けていること。文句をつけようと思えばいくらでも出てくるような気もするが、わたしが最も問題だと思ったのは、スペシャルで放送された「おひとりさま」が女性を「モノ」として扱う企画であり、さらに、番組に出演しているタレントもスタッフもそのことにまるで自覚も疑問もないことである。

そもそも、どうして「おひとりさま」は「女性」でなければならないのか。深夜に出歩いている「女性」はきっと「ワケあり」だから、面白いコンテンツになりうると考えたのだろうか。そこに「男性」が含まれていないのは、「男性」が深夜に出歩いているのはとりたてて珍しいことではなく、面白みがないからなのだろうか。では、どうして「男性」が深夜に出歩いていることは珍しいとされないのに、「女性」が出歩いているとそれは「珍しい」とされてしまうのだろうか。それを考えたことのあるスタッフやタレントはあの番組内にいるのだろうか(いないからこういう企画が全国放送枠で垂れ流されているのだと思うが)。

また、深夜にひとりで歩いている女性に対し、走って追いかけて一方的に声をかけることの暴力性や、女性がそれらの行為から受ける恐怖感についての配慮も全くない。丸山くんがひとりでロケをしていたときには、正直わたしもそれらの行為にそこまで「恐怖」を感じていなかったが、スペシャルではびっくりするぐらい取材対象となった女性たちからの警戒や恐怖を感じとってしまった。これはわたし個人の観点が変化したということもあるが、「拉致」を彷彿とさせるような大型の車が使われていたこと、取材をするのがひとりではなくふたり1組だったことも関係しているかもしれない。深夜にあまり人通りのないところをひとりで歩いていると、突然近くで大型バンが止まる。かと思えば車から降りてきた数人の男性が猛然とこちらに向かって走ってくる。ホラーかよ。わたしだったらめっちゃ走って逃げる。

さらに驚いた、というか失望したというかドン引きしたのは、取材を警戒する女性たちの様子を見て、「さらわれるやつやん」などと笑って自分たちの行為を茶化した大倉くんのコメントだった(スタジオでVTRを見ていたとき)。たとえそれが「テレビ的には正解」であっても、わたしはそのコメントに思い切り眉根を寄せてしまった。コンサートでたっちょん!とはしゃぐわたしと、あの放送を見て不愉快になったわたしとで分裂しそうになった。前々から関ジャニ∞のメンバーの女性に対する考え方(というかジェンダー観全般)の部分で笑っていられないものはあったけど、ここまで来ると閉口してしまう。「きれいな人や!」と「無邪気に」取材対象を決めて女性を追いかける横山くんの姿もなかなかキツいものがあった。

そして、放送中一貫して、関ジャニ∞のメンバーたちは深夜の「おひとりさま」女性たちに個人的な質問(彼氏はいるのか、結婚はしているのか、子供はいるのか、など)を不躾に投げかけていた。親しい間柄ですら個人的な質問は躊躇するのに、むしろそんな質問を「無邪気に」投げかける人のほうが失礼とされるような考えが一般的になりつつあるのに、いつまでこんな古臭くてカビたような問答をするんだろうと見ててつらくなったりすらした。カレンダーを集めることが趣味だという女性に大倉くんが「結婚してる?」と聞いたとき、女性は「そんな質問はしないほうがいい」と優しく拒絶してくれていたにもかかわらず、大倉くんは続けて「彼氏は?」という質問を投げつけた。そして、個人的な質問への返答を拒む女性の反応に、「強がりなのか何を聞いてもはぐらかす」という意味不明で強引で失礼極まりないナレーションを入れるスタッフ。質問をした大倉くんも大倉くんだし、編集をしたスタッフもスタッフだけれど、ああ、こういう人たちが作っている番組なのかと、あまりの時代錯誤っぷりに呆れてしまった。結婚をする人もいれば、しないことを選択する人もいる。恋人がいない女性はみな彼氏がほしいと考えているわけでもないし、もしかしたらそれは彼氏ではなく彼女かもしれない。そもそも自分は女性や男性に当てはまらないと考える人だっている。

2018年。世界は少しずつ変わりつつあるかもしれないと期待したり、あまりの変わらなさに絶望したり、どちらの感情も抱いた1年だった。#metoo運動によって、モデルやタレントして活動する女性たちや一般の女性たちのさまざまな経験や告発が日の目を見た。一方で、財務省次官による女性新聞記者へのセクハラ(しかもめちゃくちゃ気持ち悪いやつ)があったり、多数の医学部におけるあからさまな女性差別(幼稚な言い訳付き)が明らかになったりした。わたしは「女性」という集団に属するとされるひとりであり(という曖昧な表現を使うのは、わたしが構築主義に傾倒していてカテゴリーなるものに嫌悪感を抱くからでもあるが、クィアトランスジェンダートランスセクシュアルについてわたし自身がまだきちんと考えられていないと認識しているからだ)、2018年にあちこちで取り上げられて議論された女性差別に関する問題たちを他人事だと切り離すことはできなかった。そして、「女性」をジャッジする「誰か」の眼差しを自らも内面化していることに色んな場面で気がつくようになった1年でもあった。(同時に、そのような眼差しが推奨される場所に身を置いてはいなかったことにも気がついたけれど)(それは幸いなことだった)そんな1年を経てから見たクロニクルだったから余計に参ったのかもしれない。

ツイッターでもいろんな意見が飛び交っているが、取材に応じてくれていた女性たちへの誹謗中傷もちらほらあってやるせない気持ちになる。ランニング中で取材を拒否した女性に対して「ババア」と言っている若い女の子とか。みんないずれはそのババアになるんやから、何かしらのかたちで悪口言いたいんやとしてもそれは使わんほうがいいと思うで、みたいな気持ちになってしまう(書くの疲れて半分ぼやきみたいになってきてる)。自分に呪いをかけるような言葉は使うまいと決めた2018年だったから、他者への呪いで間接的に自分に呪いをかけてる人を見るとつらくなっちゃう。余計なお世話かもしんないけど。

とにもかくにも、無謀な願いかもしれないけれど、関ジャニ∞および制作陣のみなさまにおかれましてはその昭和の煮凝りみたいな価値観をはやいことアップデートしていただきたい。多忙すぎて情報を仕入れたり見識を広めたりする暇がないのかもしれないし、特に制作現場にいる人たちはもう労働環境がひどすぎてそんなことを考えるゆとりすらないのかもしれないみたいなことも考える。けど、そんなことは業界の経営者たちが考えるべきことであってわたしが悩むべき問題ではない。

ほんとムカムカする番組だったな(律儀なので番組へのメッセージもきちんとお送りした)。ずっと考えて文章にするの、楽しくはなかったけど、自分がひっかかることやイライラすることをきちんと考えて文章に起こすことが今年の目標のひとつでもあるから、幸先の良いスタートを切った、ということにしたい。(無理やり)

おわり

 

1/4 追記

関ジャニ∞というグループ、また、各メンバー個人に対する誹謗中傷の材料としてこの文章が利用されているというコメントをいくつか頂いたので、追記します。

ある人物が、その人物について語られた一側面のみで、全人格を否定されることは、不当だと考えています。文中に大倉くんと横山くんの名前を挙げ、彼らの言動に対する違和感を綴りました。しかし、だからといって、ここに書かれた数行の文章だけによって、彼らという人間がまるごとジャッジされたり、誹謗中傷されたりすることを、わたしは望んでいません。また、この文章を根拠として関ジャニ∞というグループが中傷されることも望みません。

個人の言動に対する批判(今後の改善をのぞむもの)と、個人の人格に対する誹謗中傷(攻撃的で悪意のあるもの)は別物です。誹謗中傷のためにわたしの文章を利用することはかたくお断り致します。

色々としんどいときに、笑わせてもらえたり、力をもらえたりした人たちが、悲しくなってしまうぐらいにダサいことを無自覚のままに続ける姿を見ていられなくなったという考えもあって書いた文章です。彼らをこき下ろすために書いた文章ではありません。