みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

1月9日 クィア理論講座のメモと考えたこと

第6回 国境を越えるトランスの冒険 日本におけるGID医療・法とその陰画

1. 日本における性同一性障害医療・法制度の成立

日本では、1950年代~1960年代にも性転換手術(性別適合手術)が行われていたが、「ブルーボーイ事件」が性転換手術を非合法と考える根拠となり、手術はアンダーグラウンド化。1998年に埼玉医科大学によって行われた性転換手術が初めて公に行われた手術とされることに。「性同一性障害の性別の取り扱いの特例に関する法律」が2003年に成立するも、その基準には問題も多い。

2. GID規範の批判と「トランスジェンダー」の概念

GID: Gender Identity Disorder

GID規範、正当なGIDという言説。ある一定の基準たちを満たしたときに「認められる」。精神科医などにより診断カテゴリーとして付与される「GID」に対し、男/女という二元論から脱しようとする概念としての「トランスジェンダー」。医師(権威を持つ)によってGIDと診断される「患者」と、トランスジェンダーという「生き方」を選択する人々。両者に対する社会的なまなざしおよび制度的な充実の隔たりは大きい。国際的にはトランスジェンダーの脱(精神)病理化が進んでいるが、日本ではGIDアイデンティティのカテゴリーと考えることは可能かどうかといった議論がなされるほど定着した。

3. GID言説の陰画としての「非正規」医療

ブルーボーイ事件」が「正規」医療と「非正規」医療を分かつこととなった。タイでの「非正規」医療行為を受けた経験を「楽しい」ものとして語られるのはなぜか。医療ツーリズムについての考察。

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最後の項目だけあんまりまとまってないしなんかあっさりしすぎてる~。前に北京で男性同性愛者のおじさんたちがしゃべるイベントのときに、「一時期トランスジェンダーやってたけど」みたいな話をしていたのに驚いたことがあったけど、わたしはたぶん「性同一性障害者」と「トランスジェンダー」とを同一視してた。「性同一性障害者」って言い方がいまいちなのも今日はじめて知った(WHOがトランスジェンダー精神疾患とみなさないという声明を出したそう)。

「性別違和」って言うならわたしも多少は「性別違和」かも。こないだコムアイが「両性具有にあこがれる」って言ってるインタビュー読んだけど、なんとなくその感覚がわかる。わたしはわたしが、一般的に想像される「女性」というイメージからはいくらか距離のある存在だからだと考えているからかな。日本における「女性」のイメージだけど。(わたしが決してなることができないイメージだから、わたしはそのイメージが存在することをたぶん嫌悪している)

こないだ『82年生まれ、キム・ジヨン』の副読本的な感覚で読んだ『私たちにはことばが必要だ』。くだらない反論は無視しても良いとか、なんというか、日常生活における徒労を避けるためにはすごく必要なことがたくさん書かれていて励みにもなったけれど、「女として生まれているからわたしたちには『直感』がある」といったような記述には見慣れた違和感があった。「女として生まれて」いない場合は? 後天的に女の体を持った場合は? 男の体を持っていればすべて無関係の問題なのか?「国家」という制度のもとに、「純粋な存在」たり得ないわたしは、たぶん「性別」という制度のもとで同じく「純粋な存在」たり得ない何かを考えようとしてしまっている。

そういう意味で、「トランスジェンダー」(あるいはクィア理論?)はなんとなく安心できるのかもしれない。安心できるってなんだろうとも思うけど。それは白黒ハッキリさせようとしないものであるような感じがする。でも、まあ、トランスジェンダーという新しい名前がついた時点で、そこにはトランスジェンダー以外が規定されるから、カテゴリーとなっていくことからは逃れられないんだろうなとも思うけど(もうなってるのかもしれないけど)。カテゴリー大嫌いなのにカテゴリーの話するのほんと大好きだな。

GID医療についての議論みたいなのを聞きながら、なんとなくGID医療って帰化(あるいは国籍の変更)と似ていると思った。そしてそれは在日コリアンの2世とか3世あたり(目安)が置かれた状況に似ているとも思った。日本社会の正当な一員としての自身をさまざなま書類によって証明し、制度のもとで帰化という手続きを経て「日本人」になる過程。思い出すのは松田優作。ある性別に属する正当な一員としての自身をさまざまな書類や医師の診断によって証明し、制度のもとでGID医療(その最終段階としての性転換手術)という医療行為によって「男/女」になる過程。 似ているような気がするからって、安易になんでもかんでもつなげて考えようとするのは良くないのかもしれないけど、自身がある集団(あるいはカテゴリー)に属する正当性を証明するための「必須」手段と考えられることが多いという点で、両者は似ているような気がした。

ただ、自分自身にとって、人生において実用的な理由や利益のためにその手段を用いるのか、という点では状況が異なるのかもと考えたり。ずっと日本に住んでいるから、海外に行くときにビザがいらない国がめちゃくちゃ多いから(ほんとに便利)とか、そういった実用的な理由、「アイデンティティ」に関わらない理由で帰化をする人って、多くもないけど少なくもないと思っている(だからと言ってそれらが日本におけるレイシズムの影響を全く受けないわけではないと思ってるけど)。日本でも。一方で、「アイデンティティ」から完全に切り離された、実用的な理由のみでGID医療を行う人はそんなにいない、ような気がしている。わたしのまわりにそういった人がいないってだけなのかもしれないけど。

あ、1時間に設定していたラジオのタイマーが切れちゃった。言語が先なのか、概念が先なのかみたいなこと考えたかったけどもう眠い。

おわり