みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

190119 カタストロフと芸術のちから展

京都におけるドラァグクイーンエイズに関する活動について、「クロニクル京都1990s」という小さな展示をやっている、と小耳に挟んで慌てて訪れた森美術館。クロニクル京都1990sだけのための入場チケットはなかったので、カタストロフと芸術のちから展もいっしょに見てきた。結果から言えば大正解で、あまりのボリュームと内容の濃度に、もっとはやい時間から見に来ればよかったとちょっと後悔。

さまざまな媒体で「カタストロフ」を表現した作品が展示されていたが、アイザック・ジュリアンの映像作品が心臓にズドンと来た。
 

www.mori.art.museum

全部で5つの作品が3面の巨大なパネルに投影される。「2008年に起こったアイスランドの金融バブル崩壊により全てを失った写真家」と「子供の養育費を稼ぐためにドバイでメイドとして働くフィリピン人女性」についての映像作品が特に好きで、苦しかった。

映像を見た順番もたぶん関係しているし、東京都でバンクシーが見つかったとはしゃぐ政治家のニュースからもどこか影響を受けている。わたしが作品の部屋に入ったときは、2008年のリーマンショック後、美術品に対する投資の増加を美術館のキュレーターらしき男性が、あなたたちには無限のチャンスがあるのですとでも言うかのように陽気な声音で語る映像から始まった。「200万ドルで購入した絵画が4000万ドルに!」 夢があると感じないわけではなかったが、大した資産を持っているわけではないわたしにとって、それは縁遠い話にしか聞こえなかった。生活の維持に不可欠なわけでもない絵画の購入に200万ドルをポンと出すことができる人間がこの世界はたしかにいるのだなと、毎月の手取りと税金を思い浮かべながらどこかむなしい気持ちになってしまう。

どの作品がより高値で売れるのだろうか、ということを考えて芸術を評価すべきなのだろうか、というありふれた疑問も浮かぶ。いや、わたしはそれを拒否したい。けれど、より高値で売れる作品を予測することは、つまり、数年先、数十年先において重要とされる価値観やセンスを先読みしようとすることでもあるだろうから、それはなんだか悪いことではないようにも思える。だけどなんでこんなに抵抗があるのだろう。なんとなくムカつく。価値が上がりそうだから所有してから売却するということの、たぶん、「売却する」部分にムカついている。所有するなら好きを理由にしてほしい、手放すなんてしないでほしい、みたいな、身勝手な考えから来てるのかもしれない。

メイドとして出稼ぎに出てるフィリピンの女性についての映像は、先輩が研究対象としていた技能実習生のことを思い浮かべながら、身近な友人たちの母親を思い浮かべながら、見ていた。だだっ広くて無機質な感触がするきれいなオフィス。暗闇にキラキラした光をまき散らすビル群。メイドとしてそこに通う彼女が住んでいる場所は、砂埃が舞う団地。貧富の差。いわゆる「富裕層」にわたしが属していたなら、こんな苦い感情は持っていなかったかもしれない。所有する財が異なるだけで、人間としての尊厳が無邪気に踏みにじられること。映像のなかにあらかさまにそれを示す内容はなかったが、彼女が涙を流しながら「私は強くあらねばならないのです」と口にしたときにふとそんなことがよぎり、心臓がぎゅっと縮んで息苦しくなった。あのキラキラした光は、彼女のような階層にいる人々に対する搾取から成り立っている。わたしは搾取する側にいるのだろうか。搾取される側にいるのだろうか。ひょっとすると、どちらわたしはそのどちらでもあるのかもしれない。

映像を再生していた部屋の奥は一面窓になっていて、大きな窓からはキラキラした東京の夜景が広がっていた。その様子は確かに綺麗だった。けれどパネルに映し出された映像と窓の外はひと続きになっているように思えて仕方がなかった。わたしは何度も窓の外に目をやった。いまわたしが見ている作品は、たしかに別の場所で起きている別の物語だけれど、いまわたしが居る「ここ」がその物語から全く無縁はということは決してない。

もうひとつ、印象に残った映像作品がある。

田中攻起  2017 一時的なスタディ:ワークショップ #7 知らないことを共有し、いかにしてともに生きるか(Day9のみ) (Provisional Studies: Workshop #7 How to Live Together and Sharing the Unknown (Day 9 only))

最初から最後まで見ることができなかったので推測になるが、たぶん、バックグラウンドを異にするドイツ在住者たちによって行われたワークショップの様子を撮影したもの。映像がいちいち綺麗でよくできたドラマのようだったけれど、意見の衝突がそこかしこで小さく爆発する。かつてわたしが好んで出席していた哲学的対話のクラスみたいだと思いながら、地下駐車場で円になってお互いの考えを語り合うかれらの姿を眺める。

アメリカからドイツに移住してきたらしい黒人の女性(40代~60代くらい、青いターバンを巻いていたので、ひとまずブルーと呼ぶことにする)が議論の中心になることが多かった。彼女が奴隷制について話すときの、ほかのメンバーとの温度差が、ソファに座って画面を見ているだけのわたしにまで伝わってきた。ブルーが話せば話すほど、彼女自身の経験や意見をとうとうと述べるほどに、まわりはなぜか白けていく。すぐ隣に座っている若い女性(肌はすこし浅黒くて、イスラム系? 黒い服を着ていたのでブラックと呼ぶ)は、呆れているのか、ブルーをなだめようとしているのか、そのどちらとも取れるような「やさしい」口調でブルーの意見を受け入れる。「尊厳 (dignity)」について、ブラックは、当たり前だというように、それはみなが持っているものなのだと言う。しかし、ブルーはそれを否定する。生まれたときから「お前には価値がないのだ」と吹き込まれ続け、「主人」と目を合わせることを禁止され、鞭で打たれ、「家畜」のように扱われた人間が「尊厳」を持つことは不可能なのだと、どこか激しさを抑えられない様子でブルーは語る。

「それはそうだと思う。だけど」

ブルー以外の人はどうしてこんなに逆接をくっつけたがるかな。映像を見ながらそんなことを考えていた。たぶんブルーが言わんとしていることは、ワークショップのメンバーや映像を見ているわたしたちの誰にも完全には共有され得ない経験だ。そもそもわたしとあなたは別の人間で、同じ経験をしていないし、似た経験をしていたとしても、人生のなかでそれをどのように位置づけ意味づけているのかはきっと異なっている。当たり前の前提がここでまた蘇る。ブルーは、言い方を変えて同じ話(奴隷制という過去と、人間としての尊厳の関係について)を3回か4回繰り返した。4回目あたりにブルーが発したことばでワークショップのメンバーの態度が少しだけ変化する。

「尊厳を持てるのは、大人になる過程で、尊厳とは何か、ということを教えられた人だけ」

「尊厳」は人間であればみな持つことができる、あるいは、すでに持っている。その考えはたしかに理解できるし、わたしも同意する。けれど、たしかにブルーが言ったように、そもそも「尊厳」という概念(べつに単語を知っていなければならないというわけではない)を知らなければ、「尊厳」を持つことは不可能なのだ。

伝わらないことを伝えようとして怒ったり戸惑ったり呆れたりするブルー。彼女の姿にたぶんわたしは自分を見ていた。ブルー以外のメンバーの困惑や呆れ。ブルーに対してのブラックの様子は「わかってないなあこのオバサン」とでも言っているかのように見えたけれど、一方でどうしてわたしは彼女がそう言っているように感じてしまったのだろうか、ということも考えてしまう。

展示されていたほかの写真や絵画についても言及したかったけど、この2作品のインパクトとボリュームがあまりにも大きすぎた。そして、アイザック・ジュリアンも、田中攻起も、割と本気で追っかけていきたいなと思ったりした。ひとまずアイザック・ジュリアンについて簡単に調べてみたら、ポストコロニアル理論とかホールの話をしててちょっとだけわくわくしてる。ただ、同じポストコロニアル理論でもそれを論じる人がいわゆる西に属するのか、それとも東に属するのか、同じ移民でもその人の階層や育ってきた環境がどのようなものだったのか、同じ芸術家(アーティストのほうがしっくりくる?)でもその人が「正統な男性」かそれ以外か(「男性」と「女性」、としなかったのは意図的)で、いろんなものの見え方はずいぶん違ってくる。アイザック・ジュリアンや田中攻起はどこに位置づけられる人なのだろう。そして、かれらは自身をどう位置づけて作品を作っているのだろう。考え出すときりがない。

見たあとにもやもやして引きずる作品は良い作品だと思っているから、めちゃくちゃもやもやさせられた上記2作品は時間をかけてじっくりゆっくり消化していきたい。あと、これまで「芸術家」とされる人たちへの向き合い方みたいなの、全然考えたことなかったけど、ちょっと考えてみたいなと思ったりした。向き合い方、というかその人の作品を解釈するときに、作者がどのような人物であるのかについてどれくらい考慮すべきか、という問題かも。

クロニクル京都1990sについての話全然できずに終わっちゃった。(つかれた)

おわり