みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

もう会えないということ

すごくすごくお世話になった先生が亡くなった。最後に会ったのは4か月ほど前のことだった。集まりに遅れていったわたしはたまたま先生のとなりに座っていた。地元に帰ったときのお土産を持って来ようと思ったんですけど、また今度会ったときにでも渡しますね、みたいな、そんなことを話した。

学部と修士のあいだ、面倒を見てもらった。ろくすっぽ報告もせずに、好き勝手にあれこれと手を出しては勝手に失敗するみたいな、まあ、あんまり良い学生ではなかったと思う。でも先生とはどこか気が合った。

彼女のもとで大学時代を過ごすことができたのは、とても幸運だったと思う。先生はいつも自由でお茶目で愛らしかった。今日は虫の居所が悪いのかな?みたいな日がないわけではなかったけれど、MACのシャドウとリップをまとった先生が素敵な洋服を格好良く着こなして、友だちと話すみたいにわたしに話してくれるところがすごく好きだった。〇〇の履いてたパンツと同じようなの買ったの!といたずらっぽく笑ったこと、わたしがそのブラウスかわいいですねって言ったときにそうでしょおって得意げな表情をしてみせたこと。ほんとにかわいかったな。

先生がいちばん深く属していたコミュニティの人たちと会う機会があったのも、今思えばありがたいことだったなと思う。あの夏のことをわたしはこの先ずっと忘れられないんだろうな、とも思う。

「死ぬ」なんていう事象からいちばん遠くにいるような、エネルギッシュで、いつもパワーにあふれていて、めちゃくちゃな量の仕事をバンバンこなしていく、そんな人だと思っていたから、真っ白い棺のなかで目を閉じている先生の姿は先生じゃないみたいで、目の前にしてなお、現実感がなかった。

キラリと光る髪飾りをつけて、穏やかな表情を浮かべて眠っている先生は、なんだか別の人みたいで、こうやって棺をのぞき込んでいるわたしに「もう!悪趣味なんだから!」とちょっとばかし不機嫌になってるんじゃないかって、ひとりで考えて、ひとりで笑った。先生とのお別れに集まったわたしたちはそれぞれにめそめそしていたけれど、もし先生がこの光景を見ていたら、ぷりぷり怒ってるんじゃないかなと思ったりもしてみた。

やっと先生の言いたいことが理解できる兆しが見えたと思っていた。まだまだ先は長くて、将来のどこかでわたしが再び先生がいる領域に関わることがあれば、そのときはまたいろんなことを教えてもらったり、おこがましいかもしれないけれど、競い合ったりしたいと思っていた。先生が何に興味を持っているのか、何を明らかにしたいと思っているのか、先生がどこを見ているのか、そんなことたちが少しだけ分かり始めたような気がしたところだった。

そんなことたちを伝えるよりも先に、先生と会えなくなるなんて、思ってもいなかった。もう並んで歩くこともない。道ばたで偶然出くわして、同級生のような気軽なあいさつを交わし合うこともない。突然よくわからないお土産をもらうこともない。ころころと変わる髪型に感想を言うチャンスもない。

感傷的になっちゃうな。

人はいつか死ぬことや、人が死んだらもうその人とは会えなくなってしまうということを、つい半年前に、痛みと共にこころに刻んだはずなのに。人は目の前にいる誰かがすぐにいなくなってしまうとは思わないものらしい。

寂しい。でも、深く深く落ち込むほどでもない。毎日忙しくしていることが幸いしているのかもしれない。

こんな別れを、わたしは生きている限り何度も経験することになるのだろうか。

追記

わたしは先生にもらっただけのものを先生に返すことができたのだろうかと考える(答えは出ているんだれど)。この先、どうやって返していけばいいのだろうか。