みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

ウゲェとの向き合い方

贔屓にしているひとたちの言動(や活動)に対して、ホモソノリやミソジニーやセクシズムがしんどい的な意味でウゲェとなってしまったとき、「ファン」としてそれとどう向き合うべきかについて、再びいろいろ考えてしまっている今日この頃。長くK-POP界隈うろちょろしてるけど、メンバーが契約のことで事務所と裁判沙汰になるとかはあっても、こういう変にもやもやするような問題にはあまり出くわしたことがなかった。K-POPはパフォーマンスだけ見るという選択肢が取りやすいからとか、ことばが違って細かいところまで知らないからとか、そもそもわたし自身の考え方がここ数年で大きく変わったから、といったようなこともあるとは思うけれど、ジャニーズ界隈をうろちょろするようになってから、ウゲェとなる機会が明らかに増えた。

ジャニーズのグループの「ファン」になるという経験をしたのはここ数年のことで、ファンクラブに入るくらいハマったグループは複数あったけど、今でもファンクラブに入っているのはひと組だけ。そのひと組がなんだかんだで続いてるのは、楽曲を含めたパフォーマンスや世界観が好きというのは大前提として、本人たちの言動がそこまでひっかからない*1のと、過去の経験から、活動を追っかけすぎるとウゲェの確率が高くなることを知って、つかず離れずで適度に距離を置いているからと思う。アルバムは買うしコンサートにも行くけれど、雑誌・テレビ・ラジオは基本的には見聞きしない、みたいなマイルール。

以前ファンクラブに入っていたグループは、トークやパフォーマンスもとても魅力的で楽しかったけど、わたし自身が仕事をするようになって日常的にウゲェとなる場面を見聞きしたり、その影響もあってフェミニズムをかじったりするようになってから、少しずつ違和感をおぼえるようになって、そのうちなんとなく疎遠になってしまった(もちろんほかにも理由はある)。

楽しい気持ちになりたくて見聞きしていたのに、唐突にウゲェな気持ちにさせられる。不意打ちのそれに面食らって、むかむかしたりもやもやしたりするけど、わざわざ騒ぎ立てるほどではないし、流してしまった方が自分も楽だからひとまず無かったことにする。しかしそれは不定期に、何度も発生する。また同じように、もやもやを無かったことにする。それが何度も繰り返される。無かったことにされたもやもやは、無くなることなく、心のどこかに澱のように少しずつ溜まっていく。

わたしと関わりのある大切で親しい人たちであれば、勇気を出して対話してお互いに理解を深めようといろいろ策を講じられるかもしれない。だけど、かれらはわたしの人生において結局のところは他人でしかなく、本当の意味での対話ができるわけではない(個人同士での直接的なインタラクションがない)(と、わたしは考えている)*2。そして、自分本位のすごくいやな言い方をすると、かれらが提供する以外にも娯楽はたくさんある。わたしは生活の娯楽としてかれらのパフォーマンスを見聞きしていたはずだったのに、その娯楽のせいで緊張して身構えたりときどきウゲェな気持ちになったりしている。それってふつうに考えたらすごく馬鹿らしいことなんじゃないか。ウゲェと感じている自分を無視してまで、その人たちを好きでいる必要なんかないんじゃないか。

浅瀬でちゃぷちゃぷとコンテンツを楽しんでいるだけなら、ウゲェとなった瞬間すぐに離れるという選択肢を選ぶことができる。だけど、アイドルとファンという「関係性」の真っただ中にいると、理屈では分かっていても実践にはひどい痛みが伴う。かれらを長く見聞きするうちに情がわいてしまって、かれらは明らかに他人でしかないのだけれど、自分にとっては「親しい人たち」のひとりになっていたり、ひとりの人間としてあこがれや尊敬といった特別な思い入れが生まれてしまっていたりする。そうなると、人間なのだからちゃんと正面から向き合わなくては、というような気持ちにもなってしまう。

そして、距離を置くことが賢明だとわかっていても、相手は対話できないとはいえひとりの人間で、人間を相手にいつでも一方的なさようならができるようにしている自分は、かれらを人間ではなく生活の嗜好品として扱っているのではないか。それは倫理的に正しいのだろうか。なんて考え込んでしまったりもする*3。娯楽は他にたくさんある、と書いている時点でもう駄目なのかも。でも、わたしには自分の健康や生活、身のまわりにいる人たちと過ごす時間の方が大切だから、そうするしかないのかも、とも思う。

ちょっと前まではひとりでウゲェとなって流していたようなことでも、ここ最近では、ファン自らが言葉を選びながら批判の声を上げるようになってきた。倫理的におしまいなコンテンツには「それはもう面白くないですよ」と伝えたほうが優しいと思うけれど、本当の意味での対話が難しい「個人」に対して「こうあってほしい」「こうあるべき」と声を上げるのは、たとえば女性アイドルへの恋愛禁止規範に見られるような、ファンによるアイドルへの「信頼」という名の「脅迫」と表裏一体なんじゃないかと思ったりもする*4。個人の信念や価値観ではなく、あくまでコンテンツや業界の構造に焦点を当てるかたちで声を上げればいくらかはマシなのだろうか。分からなくて、結局またぐるぐるしてしまう。

ジャニーズもだけどお笑い界隈をうろちょろしてたときもウゲェに出くわすことが多かった。アイドルとアイドルのファンほどには関係性に焦点が当たってないからか、距離を置くのは難しくなくていくらか幸いだった。

おわり

*1:そんなこと言いつつ、居心地が悪くなることが全くないといったらうそで、ただわたしの許容範囲内にとどまっているから続いてるんだろうと思う。

*2:アイドルを仕事としているひとたちは、「ポジティブ/ネガティブ問わず強烈な感情を向けて来るけど、ずっと同じようにそこに居続けてくれるわけではない身勝手な他人」としてのファンをどうやって受け入れてるんだろうとか、ふと考えたりもする。

*3:前も同じようなこと書いてた。そうかあれは「コミュニケーションとして行われる女の外見ジャッジ大会」!

*4:余裕が出てきたら読みたい:香月孝史 『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』