みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

コートをおろすにはまだ少しはやい午後

どうやらわたしはあまり東京が好きではないらしい。そんなことは東京に来る前から分かっていたことではあるけれど。ありとあらゆるものが多いこの場所とわたしはあんまり相性が良くない。数年前、札幌のゲストハウスで出会ったお姉さんが、「札幌は選択肢が少ないから、良いんだよ」と言っていたのを思い出す。彼女は自分の夢を追いかけるべく、東京の勤め先を辞めて、地元でもない札幌でゲストハウスのスタッフをしていたのだけれど、今なら彼女の言葉の意味が分かるような気がした。マーケティングかなんかの分野だったかな。商品の選択肢が多いことは必ずしも商品の購買向上につながるわけではない、むしろ選択肢が多いほど商品を購入する人の割合は低くなる、というような研究を耳にしたことがある。なんだか似た話だなと思った。

でも、そんな東京だからこそ、これまで見たこともないような人や物と出会えたりもする。東京に長くいるつもりはさらさらないから、しばらく留学に来たのだと割り切ってしまえば、わたしは案外東京を楽しめるのかもしれないと思ったりもする。

東京に来ていちばん驚いたのは、高校を卒業してすぐに働き始める人たちが周囲にひとりもいない、という人がいることだった。そして、東京に生まれ育った人たちが「地方都市」という場所に全く興味がなく、それらに興味を持とうとすることすらないことだった。育ってきた環境がたまたまそうだったというだけで、かれら自身は別に何も悪くないのだと思うけれど、わたしはそれに嫌悪感を抱いた。彼らにとっての日本は東京だけであり、東京以外で訪れるべき場所は有名な観光地を除けば、日本には存在せず、海を越えた先だという感覚が、私には気持ち悪かった。

ふつうの人、みたいな顔をして毎日を過ごしているけれど、私は「血」という理論を持ち出すと「非・日本人」となるわけで、病院にかかったことはなくとも精神的にずっと健康だったというわけでもなく、何不自由ない暮らしをしてきたつもりだったけれど実は「貧困」との距離が意外と近かったりした。ふつうの人に思えても、それを自認していてもなお、スティグマになりうる何か、「少数派」とされる要素をどこかに抱えて生きている。こういったものから完全に解き放たれているような人を見ると、うらやましいと思う一方で、少し怖くもある。想像力はどこまで有効なのだろうか。もちろん、解き放たれているように「見える」だけであって、ほんとうのところは様々な小さな引っ掛かりみたいなものを、かれらも抱えているということもあるのだろうけれど。

きのう後編が放送された「フェイクニュース」。ひとつひとつのセリフにいちいち泣きそうで、わたしの生活とわたしの倫理という問題に対して、わたしはいまだにカタをつけられずにいたことを思い知った。ぐらついていく世の中を醒めた目で見ることができないこのどうしようもない感覚はなんだろう。世の中がぐらついてしまったときに、わたし自身が被害を被るかもしれないという恐怖感があるからだろうか。ぐらついていく、という考え自体、あまりにも悲観的で的外れなのかもしれないけれど。なんでもかんでもすぐに自分もまた当事者になりえるのだという感覚を持ちすぎるところがあることは自覚しているけれど、これは果たして良いことなのだろうか、それとも、わたしをふしあわせにさせるだけなのだろうか。

おわり