みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

海のそば、2本立て

バレンタインデーがレディースデーだったこともあって、映画を2本観てきた。

ダンケルク

PARAMUSHIRでもやもやして戦争の表象について検索をかけまくっていたときにヒットした映画。偶然にも期間限定で再上映していることを友人が教えてくれたので観に行ってきた。IMAXとかいうバカデカいスクリーンとリアルすぎる音響で観たのもあってか内容をまだちゃんと咀嚼できてない。映像と音の暴力性みたいなものにひたすらビビり倒した120分。

終わってから考えたことはまだ断片的でまとまってない。ひとつは、「第二次世界大戦という戦争を描くのは誰なのかという問題」。『ダンケルク』はタイトル通り、ダンケルク(フランスの地名)における連合軍の撤退を描いた映画で、事前に読んでいたいくつかの記事のとおり、たしかに戦争映画というよりほとんどパニック映画だった。イデオロギー的なものも個人のお涙頂戴ストーリーみたいなものはあんまりなかったように思った。なのにどうして「第二次世界大戦という戦争を描くのは誰なのかという問題」みたいなのが出てくるかというと、ラストのなんとかイギリスへ無事帰還した兵士が新聞を読み上げるシーン。詳しく覚えてないけど、ダンケルクからの撤退もある意味勝利であり、我々は戦い続けるのだ、というような演説を首相がしたという内容だった。こういう描写の仕方は、日本の戦争映画では出来るのだろうか。日本はいわゆる「敗戦国」だが、戦争の結末(連合軍の勝利)から意味づけを行うのであれば「正義と悪」でいう「悪」のほうだと言えるかもしれない(なぜなら正義が勝つのだと相場が決まっているから)。日本で制作され公開される映画は「敗戦国」が第二次世界大戦をどのように描くかという問題でもあるのか?というなこと。

もともとPARAMUSHIRを観たあとのもやもやをなんとかするきっかけになるかもという期待も持って観に行った映画なので、上映中、ちらほら頭のなかをPARAMUSHIRがよぎった。演劇は戦場を描写するには適さないのではないか。あの暴力性を、銃声のあのおぞましさを物理的に限られた舞台という場で描くことはできないのではないか。たぶん演劇に関わる人によって一通り考え尽くされているとは思うけど、個人的にはそう感じた。ショックの度合いが違うというか。それはIMAXという技術の進歩かもしれないけど、リアリティの違いかもしれない。

ダンケルクで描かれた戦場とPARAMUSHIRで描かれた戦場のどちらがより「ほんとうの戦場」に近いのか、わたしには分かり得ない。両者の違いは人と人とのつながりのかたちが違うことで、それは社会における様々な慣習の違いに起因するのかもしれないけれど、兵士の多様性という点についてPARAMUSHIRは全く触れていなかった(触れる必要がないと判断されたのかもしれない)なと考えたり。まるでゲリラ豪雨のように描かれる爆撃。吹っ飛ばされる兵士の体。幸運にも生き残った兵士たちは「やれやれ」とでもいうような表情と身振りで立ち上がり、爆撃前にしていたように、きちんとした列に並び直し始める。わたしにはこちらのほうに「ほんとうらしさ」を感じた。それはなぜだろう。

大好きなおじさんたちのあの舞台をこきおろしたいわけではないのに粗探しばかりしているような感じがしてきてしまった。でもほんとうに薄っぺらくて何もない舞台だった。分かりやすい自己満足とでも言えばいいのだろうか。こんなひどい言葉を並べ立ててしまう自分に腹がたつ、そしてやっぱりかなしい。

 

『羊の木』

スティグマの物語。ゴフマンの『スティグマ社会学』まんまだ、なんてことを思いながら観ていた。主人公の月末を単なる物分かりの良い万能な好青年とすることなく、たとえば太田さんに「もう父とは会わないでください」と言いのけるとか、宮腰くんとアヤが付き合いはじめたことに嫉妬して思わず宮腰くんの過去をアヤに言ってしまうとか、そういうのは、リアルというか、人間って善人と悪人に切り分けられるものじゃないもんなあというのを考えさせられた。

個人的にいちばん印象的だったのは宮腰くんが月末の手を引っ張ってふたりで崖から飛び降りる瞬間。内容としてはほとんど関係ないけど、99年に公開された豊田利晃監督の『青い春』で、九條の目の前で屋上から落下していく青木が頭に浮かんだ。宮腰くんと九條の雰囲気がなんとなく似ていて、月末と青木がダブった。宮腰くんと九條を演じたのがどちらも松田龍平というのがいちばん大きいけど。『青い春』で青木とふたりして落ちていく九條の姿が見えたようで、心臓がぞわぞわした。

だけどそのあとの意味不明な展開はあんまりついていかなかった。原作を読んでないからきっといろんなものが抜け落ちてしまったんだろうと思うけど、結局善人っぽい人たちが生き残って、悪人っぽい人たちは死ぬというオチはどうだったのか。伊坂幸太郎の作品で、めちゃくちゃな悪党みたいなキャラクターが最後まで生き延びるという絶望的な事態が描かれているのがたしか数作あったけれど、それとは反対だなと思ったり。現実にはサイコパスみたいな人も生き延びてるから映画もそうしたほうがいいのでは、とかいうのではなく、単純に宮腰くんの最期(?)が無理やりすぎるように感じただけかもしれない。