みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

漠然としたもの

あと2週間もしないうちに日本を離れる。まずタイに10日とすこし、そのあといったん日本に帰ってきてから、かつて住んでいた国に帰る。こうやってことばにすると変な感じがする。帰るのにまた帰るなんて。実際に私が訪れるのは私の地元ではないから「帰る」というよりは「行く」感覚だけど、でも「帰る」という感覚もたしかにある。なんでなのかはよくわからない。

たぶん私はそれなりにうまくやるんじゃないかなと思っている。けどどうして胃のあたりがこんなにそわそわするんだろう。

単に楽しみというのとは全然違う。もしこれが韓国だったらこんな気持ちにはきっとなっていない。韓国だったら、ドキドキとわくわくでいっぱいになって、それで向こうに行ってもきっとなんとなくうまくやっていけるような気がする。ことばはまだおっつかないけど、なんとなくなじんでしまえる気がする。

もしかしたらそれは私があの国では完全な「よそ者」でいられるからなのかもしれない。相手の言ったことがわからなければ私は外国人なまりの韓国語で「韓国人ではない」と言い切ることができる。そう言い切ることに何のためらいもない。だけど私がいまから行こうとしている国で私はそう言い切ることができない。

私はひとりの人間を国家という枠組みだけで捉えるナントカ人という概念が好きではなくて、というか私がその枠組みからはみ出しているのでその枠組みで自分を捉えられるのが好きではない。だから、その考え方を否定する立場をとっている。だけど、9月から私が再び暮らす場所はたしかに私が生まれた国で、もしかしたらそのあともずっと私が育っていたかもしれない場所を含むところだ。

日本で「日本人なの?」と聞かれることはないけど、自分についての簡単な説明をするときに、面倒くさいのにあえて「日本人」であることを否定するのは、どうしても私は自分をいわゆる「日本人」と同じものとは考えられないからだ。だけど、私が生まれた国で同じことができるのかと聞かれると、あまり自信がない。ナントカ人だと決めつけられるのは嫌だから、もし誰かに○○人なのかと問われたら、私はきっと違うと否定してそのカテゴライズを拒絶するんだろうと思うけど、じゃあ日本人だね、とされるのはもっと嫌だと感じるような気もする。ナントカ人って概念が嫌いなはずなのに、日本人だって言われるくらいなら私はむしろ○○人だよ、と思ってしまう瞬間がある。それは私がいま日本で暮らしていることと無関係ではないと思うけど。

何を書きたいのか全然考えずに書いたから全然まとまらない。

やらなくちゃいけないことは山のようにある。

そういえばWonder Girlsのあたらしいアルバムの "Baby Don't Play" がなんとなく森高千里の "ミーハー" っぽいなあと思いながら聞いてる。


森高千里 『ザ・ミーハー』 (PV)