みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

石川文洋を旅する

石川文洋を旅する」大宮浩一監督

誘われて観に行ってきた。友だちに教えてもらうまでは石川文洋のことも全く知らなかったけど、アメリカに永住するべく米軍に従軍しながら(当時、米軍で3年従軍するとはやくアメリカ市民権申請ができたらしい)、ベトナム戦争をカメラにおさめ続けた人物。1938年生まれで、出身は沖縄、4才で千葉に引っ越したそう。

友だちの関心から勝手にベトナム戦争の映画だと思っていたけど、半分くらいは沖縄に関すること。

沖縄は日本とはみなされてこなかったんだな、と言うと語弊があるけど、日本の沖縄に対するダブルスタンダードみたいなものを、石川さんの語りや映画での描写から感じた映画だった。春に沖縄へ行ったときに感じた、「沖縄は日本ではない」(「国家」としての日本ではなくて、文化とかそういう面での日本)っていうのともまた違って、うまく言えないけど、日本という国家は「沖縄」を自分たちの都合の良いように、利用できるところはうまく利用して、不利益になるようなときにはためらわず見捨ててきたんだなということを感じずにはいられないというか。

(そういえば「沖縄」ってだけ言うと、ほかの島が入らないことがあるからって友だちから突っ込まれたことがあるけど、やっぱ「琉球」って呼ばれたかったりするのかな?人にもよりそうだけど)

また、4才で沖縄から千葉へ引っ越したにもかかわらず、彼が沖縄に自分のルーツを求めている部分でも、やはり沖縄と「本島」との間には隔たりがあったんだなあって感じてしまった。(北海道についてはあまり突っ込んで考えたり調べたりしたことがないでのとりあえずおいとく)

たとえばの話、「本島」の人たちは4才で引っ越した場合、自分の「ルーツ」を自分が生まれた場所に求めようとするものなんだろうか、と思ったり。土地にもよるんだろうなとは思うんだけど。

彼の出身が沖縄だからなのか、それとも時代背景によるものなのかはわからないけど、彼はとても沖縄にこだわっていた。自分のことを「沖縄人」と称するシーンさえあって、そのシーンを観て南米へ移民として渡った沖縄の人々の語りを思い出した。

それと、ベトナム戦争

ベトナム戦争で傷ついた女の子をとらえたシーンで、すごく印象に残ったナレーション。

「彼女はアメリカの砲弾によって傷つき、アメリカの薬による治療をうけているのです」

(言い回しはちゃんと覚えてないけど、内容はこんな感じ)

戦争は所詮ビジネスチャンスなのだろうか、という疑問を抱かずにはいられないけれど、だからといってアメリカが全面的に悪だと言い切れるものでもないんじゃないかって話をした。一緒に観に行った友だちと。いまのガザ侵攻も、湾岸戦争も、イラク戦争も、詳しくは知らないけれど、なんとなく似たような構造があるんではないかと思ったりして。でも、アメリカがそういった「正義の戦争」をする背景に、どういう考え方や制度、そのほかもろもろの事情があるのか、それをほとんど知らないまま「アメリカは悪だ」と言い切ってしまうことはあまりにも短絡的な気もする。

でも、やっぱりたくさんの人が死んでるから、アメリカという国家がやっていることは、私にとっての「正義」にはあてはまらないんだと思う。アメリカにとっては、たぶん「正義」に他ならないんだろうけれど。

映画の感想はそんな感じ。ただ、ひとつの映像作品としてはあんまり好みじゃなかった。

東京ではまだ上映があるみたいなので、暇な方は行ってみるのもいいんではないかと。

 

映画を観たあと、一緒に行った友だちといろんなことを話したけど、そのなかあで「知ってもらうこと」「関心を持ってもらうこと」「理解してもらうこと」の話になって、それが最近賛否両論を呼んでるアイス・バケツ・チャレンジの話とつながるものがあったので、書いとこうと思う。

アイス・バケツ・チャレンジは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の研究や患者さんの支援のために、バケツにはいった氷水をかぶるか寄付をしようという運動。ツイッターFacebookで、とくに芸能人?(国を問わず)を中心に盛り上がってるみたい。(私のまわりではそんな感じ)

この盛り上がりに対して、「アイスバケツチャレンジをしている人たちは夏を楽しんでいるだけで、ALSについて考えてないんじゃないか」「パフォーマンスをしただけでは、ALSでつらい思いをしている人たちの理解や治療にはつながらない」「氷水をかぶるよりもずっとつらい思いをしてるのに」といった批判や意見が、当事者・非当事者にかかわらず出ているそう。

アイスバケツチャレンジが何のための運動なのか、ということを知っておくにこしたことはないと思う。けれど、少なくともアイスバケツチャレンジの持つ「面白さ」によって、ここまで大きな運動になっていることはとても重要なことだと思う。そのおかげで、「ALS」という3文字はきっと以前よりも多くの人に知られるようになっていると思うし、もしかしたら、その中には関心を持って自分から調べてみようと思った人もいるかもしれない。

アイスチャレンジがここまで広がらなかったら、それによって賛否両論が唱えられなかったら、ALS患者さんの「私は氷水をかぶるよりもずっとつらい思いをしてる」という声だって、たぶん今ほど大きくはとりあげられなかったんじゃないか、ということ。

当事者の「理解してもらいたい」という気持ちには共感できるし、私自身も自分のことについてそう思うところがある(※1)。ただ、その前にまずは「知ってもらう」ことがすごく大事なんじゃないかと思うわけで。だって、知ってもらわないと、何もはじまらないし(※2)。

たぶん最初は、同じ想いを抱えた人がお互いに心のうちを話せる場所も必要なんだと思う。もちろんそうやって話すことで癒しを得るのはすごく大切なことだろうけど、もし、そこからたとえば「社会」に自分たちを理解させよう、認めさせよう、と思うのなら(必ずしもその方向に皆が動くとは限らないけど)、まずは、自分たちのような人がいることを知らない「ふつう」の人たちに、「知ってもらう」ことなんじゃないかなーっていう。

そのときに、「ふつう」の人たちの「知ろうとする」と態度も必要だと思うんだけども、それは、あんまり期待しないほうがいいんじゃないかなあとも思ったりする。人間は自分が知覚したものしか体験することはできないし、知ることはできない。だから、そういった付き合いがなかった「(「無知」な)ふつう」の人たちが、「ふつうじゃない」人たちを知らないのも当然なんじゃないかなあと。

「知ってもらう」ことが第一歩で、そこから先、どうやって「関心を持ってらもう」か、そして「理解してもらう」か、どうやってその人たちに自分たちのことを説明するのか。そういうふうに考えていくことが必要になってくるんじゃないか、という結論にまとまった。今回のアイスバケツチャレンジという運動は、いろんな人にALSを「知ってもらう」、ALSに「関心を持ってもらう」という点ですごく意味のあるものだ私は思う。

こうやってなんやかんや書いてる私も、ALSについてはWikipedeaで見たぐらいの知識しかないし、深く突っ込んで話せるような立場(?)でもないのかなあと思ったりするけど。

 

(※1)

ただ、私個人の意見として、ある人が他の誰かを「完全に理解する」ということは不可能だと思っている。もちろん、その人のことを理解しようとすることはできるし、まったく同じではなくとも似た感情を共有することもできるとは思う。だけど、たとえば、自分の性や体が「ふつう」とは異なるという違和感を持つ人たちが、どのような思いをしてきて生きてきたのかということを、自分の性や体について何の違和感も持たずに育ってきた私が、どれだけ頑張ったところで「根っこから「理解」する」ことは無理、というか理解できると安易に思ってしまうことはある意味「失礼」とさえ思う。私には想像もつかないぐらい重い経験をしてきた場合もあるだろうし、逆に、特に抵抗とか悩みもなくあっさり(?)ふつう(?)に生きてきたっていう場合もあるかもしれないし。


(※2)

人間には想像力があるので、「ふつう」ではない人たちに関する情報を得て想像することはできると思う。ただ、実際にひとりの「人間」として付き合っていくことと、「画面の向こうの他者」として見ることは違うんじゃないかなと、個人的にはそう思う。

 

映画の感想のつもりがいやに長くなった。しかし社会を変えるとかまたずいぶん大きく出たなあわたし(笑)

 

参照

http://www.tabi-bunyo.com/(映画『石川文洋を旅する』公式サイト)