みつめる

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ただの日記:教師の権威とその難しさ、みたいなところ

「将来は先生になりたい」と文集に書いたことがあった。母が言語教育に携わっていたこともあったし、当時担任をしてくれていた先生も優しかったから、なんとなく漠然とそう書いたんだと思う。夢はころころ変わった。ファッションデザイナーになったり、弁護士になったりした。高校生になる頃には、教師はどうでも良い職業のひとつになっていた。むしろ教育に携わるなんて物好きだ、というようなことを考えるようになっていた。

大学1年生のとき、教師には絶対なりたくないと思う出来事に出くわした。「教師の一挙一動はひとりの人間の人生に取り返しのつかない傷を残し得る」とまざまざと思い知らされた出来事だった。教師じゃなくたって、誰だって他者に取り返しのつかない傷を残してしまう可能性はある、と思えるようになったのはそこから数年後だった。けれど、日常的に関わるコミュニティをたくさん持っているわけではない小中高生に対して、教師が及ぼす力はたぶんけっこう馬鹿にならない。

大学で教育をかじることになったのは全くの偶然で、想定外のことだった。指導教官は絶対に自らが持つ「権威」を振りかざさない人で、よっぽど彼女の地雷を踏む発言(明らかに倫理的な問題があるようなもの)でなければ、だれの発言も否定しなかった。自身が持つ権力に対する無自覚、積極的に権威をふりかざす行為、みたいなものに対する抵抗感は、彼女と過ごした数年の間に、わたしの基礎理念みたいな部分にそれはもう深く根を下ろしてしまっていて、今もしぶとく「巣くっている」(たぶんもう抜けないと思う)。

この間、中高生たちといっしょに、ちょっとしたワークショップをする機会があった。いろんな学校からいろんな生徒たちと先生たちが来ていて、生徒と先生の関係性はこんなにも異なるのかと、そばで見ていてびっくりさせられた。生徒たちに対して「自分が思う正解」をよかれと思って押しつけ、ときに自らが持つ権威をふりかざすことで悦に入っている(ように見える)教師もいたし、生徒たちに積極的に関わろうとせず、あまり頼りにされていないようにも見えるのに、実は適切な信頼関係を築けている(ように見える)教師もいた。

ワークショップのファシリテーションをしている間、かれらは「外部の大人」という立ち位置で参加するわたしをどのように捉えているのだろうか、ということがしきりに気になった。わたしとかれらのパワーバランスを気にしながら、くだらない話をふっかけてみたり、ひたすら沈黙して場を見守ったりした。ワークショップ自体が適切にデザインされていないこともあり、なによりわたし自身のスキル不足のせいで、ファシリテーション自体も泣きそうになるぐらい難しかったけれど、実際に考えたり手を動かしたり話し合ったりするかれらと、かれらが自分の考えを出しやすいプロセスを構築し、会話や議論をよりスムーズに進めようとするわたしとの「パワーバランスの調整」がいちばん難しかった。

受け持ったグループのメンバーひとりひとりがビクビクすることなく、お互いに考えたことを話したり聞いたりして、最終的にみんなが納得しつつ、それまでのプロセスからなにか新しい発見を得るにはどうすればいいだろうか。そんなことを考えながらやってはみるけど、これがめちゃくちゃに難しい。ここはみんなの意見が尊重されるsafeな場所だよと説明したり、口を開かない子の様子を見ながら声をかけてみたりするけど、ひとりの人間を理解するなんてそんなたやすいものではないので、うまくいったりいかなかったりする。子どもたちは、みんなそれぞれの強烈なクセをたくさん持っていて、当たり前だけれど誰ひとりとして同じ人間ではないから、同じアプローチが通用するとも限らない。四苦八苦しながら、教師って仕事はほんとうにめちゃくちゃ難しいんだろうなあ、と、ぼんやり考えた。

そんな風に悩みながらファシリテーションをしていたものだから、中間地点では明らかに遅れ取ったり、アウトプットがイマイチだったりもした(タイムキーパーとしては完全に失敗)。それでもブレずに、当初の目的に沿って最後まで辛抱強く続けられたのは、教育実習で教科書ガイドとは異なる解釈で研究授業をしたときに、担当してくれていた先生が言った「〇〇なりのねらいと根拠があって教科書ガイドを無視するわけだから、他の先生になんか言われても気にしなくていい」ということばの影響が大きかったんだろうなとかも思ったりした。

あのことばがこんなところで効いてくるとは思わなかったな。(ちなみにこのとき担当してくれた先生は、口ではめんどくさいとか嫌いとか言うけど、生徒たちへの想いが行動から全部漏れてしまってるもんだから、結局生徒にはめちゃくちゃ懐かれちゃうタイプの先生だった)(かわいい)

おわり