みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

190707 Queer Animation Screening! 201Q クィア・アニメーション上映会@東京藝術大学大学院(馬車道キャンパス)

東京芸術大学大学院映像研究科主催の企画。詳細は以下のリンク先で。

GEIDAI ANIMATION

タイトルに「クィア」がついていて、しかもゲストはクィア理論を専門としてきた方だだったのでポスターを見てすぐ行くことを決めた。上映された作品のなかには分かりやすいものもあれば、全然分からないものもあった。その中で、特に印象に残ったものふたつ。

 

Diane Obomsawin " I Like Girls " 


I Like Girls Trailer (フルも上がっているので気になる方は検索してみてください)

これは個人的にとても好きで、何度でも見たいなと思った作品。4人の登場人物がじぶんの恋愛について語る。言ってしまえば、ただそれだけの映像。だけど、語り口が淡々としているのとか、もっと付け加えてもいいのに言語化されたものを本当に素直にそのままアニメーションにした感じとか、オチもなく突然それぞれの物語が終わる様子とか、それらが合わさってひとつになっているのがすごくキュートで好きだった。淡泊でシンプル。それぞれの語り手が、自分がレズビアンであることをわざわざ言ったり強調したりしないのも、レズビアンであることはとりたてて言及しなければならないような大仰な事柄ではないのだ、と言っているみたいで好きだった。

 

しばたたかひろ " 何度でも忘れよう "


しばたたかひろ/何度でも忘れよう(トレーラー)

映像としては好みではないし、また見たいともあまり思えない。だけど、映像を反芻してあれこれとずっと考えてしまう。上映後に作者本人による種明かしがあったのも大きいのかもしれない。自分はゲイで、そのことを両親に3回カミングアウトしているのに、ぜんぶなかったことにされていて、そのことについてあらわした映像だ、というようなことを言っていた。

なんの情報もない状態でこの作品を見たときには、傷の不可逆性について考えていた。主人公のテディベアは作中で傷を受けるが、誰かがそれを「縫う」ことによって、傷を受ける前の状態に戻った気になることはできる。機能を回復することもできる。だけど、その傷が「なくなることは絶対にない」。作者が作品に付け加えていることばを借りると、「傷ができたこと、傷がそこにある/あったことを、なかったことになんかできない」みたいなことを考えていた。

作者による短い挨拶と、制作意図を語る短いことば。作者は、自分のカミングアウトが「なかったこと」にされたという出来事と、そのあとの自分について考えたことを煮詰めて煮詰めて、あの作品を作ったんだろうなと思った。一方で、わたしはこの作品を、わたし自身が経験した喪失と重ね合わせて見ていたんだろうなとも思った。大切な存在を失うという経験をしたわたしは、それを失うかもしれないなんて夢にも思っていなかった頃のわたしに再び戻ることはできない。一度できてしまった傷は、癒えることはあるかもしれないけど、消えることはない。そして、傷と同時にわたしのなかに生まれてしまった恐怖や不安が完全になくなることもたぶんない。

 

作品の上映の合間に、ゲストと主催者による短いトークセッションも用意されていた。ゲストはジェンダー論、クィア理論、批評理論を専門とする松下千雅子さん。主催者は東京藝術大学大学院映像研究科の矢野ほなみさん。それと、主催ではないけれど翻訳などにも協力していたというノーマルスクリーンの秋田祥さんもトークセッションに参加していた。

まずは、「クィア・リーディング」についての説明。検索したら松下さんの科研の報告書出てきた。

kaken.nii.ac.jp

クィア・リーディングに関してはまだ全然かみ砕けてないので、とりあえず科研の報告書から引用してみる。

文学の読みにおいて、テクスト内の登場人物の性的な欲望や行動が描写され、そのことによりホモセクシュアルであると決定されうるとしたら、それはどのようにして可能になるのか。そうした描写は誰に帰属するのか、誰がその描写の意味を解釈するのか、そしてその人物のセクシュアリティを判断する決定権を持つのは誰なのか。本研究では、これらのことを明らかにし、同性愛者がクローゼットの中にいるのか外にいるのかという議論ではなく、クローゼットそのものがどのようにして構築されていくかを明らかにした。

トークセッションのなかで、ノーマン・マクラーレンという映像作家(映画監督)が話題に上がった。矢野さんいわく、矢野さんが彼の " Narcissus " という作品を分析する際、彼が同性愛者であると言及することはアウティングにあたると認識しているため、作品の中に「同性愛的な描写」があることと、彼が同性愛者であることを直接的に関連付けたくないと考えているものの、適切な分析方法(あるいは作品の「読み方」)も分からず困っているときに、松下さんのいう「クィア・リーディング」に出会い、視野が開けたという。(違ったら連絡ください……)


Narcissus

矢野さんのお悩み相談、みたいなのをきかっけに、トークの主題は作品と読者(≒作品を解釈する存在)の関係に移っていった。読者による「読み」は、その作品が持ち込まれる「場の文脈」、あるいは、読者自身が作品を「読む」際に持つ「欲望」に左右される。というような話におおむね収束していった。フィッシュの『このクラスにテクストはありますか』に出てくる例みたいだなと思いながら聞いてた。(複数の単語の羅列は、それ自体が「メモ書き」や「詩」であるのではなく、それを「詩」として読み解こうとする解釈共同体によって「詩」であると解釈される、みたいなやつ)

でもって、「持ち込まれる場の文脈によって、意味付けが変化する」って作品に限らず人にも言えそうで面白いよなと考えたり。ある人物に対する他者による解釈をラベリングと言うべきかポジショニングと言うべきかわかんないけど。なんとなくアイデンティティの話とつながるみたいな感じがして楽しい。(すぐ色んなところに飛躍させようとするクセ)

関連があるとは思ったけど、役に立つと思って専門でもなんでもない文学理論かじってたわけじゃなかったから、思いがけないところで役に立っててなんとなく愉快。

おわり