みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

190224 シアターコモンズ'19「可傷的な歴史(ロードムービー)」@ドイツ文化センター

1月に見たカタストロフと芸術のちから展で気になっていた田中功起の映像を見るために行ってきた上映会。青山一丁目ってはじめて行ったけど、思ってたよりいかつくない街だった。

theatercommons.tokyo

映像は透明感があってうつくしい。ウヒとクリスチャンによる対話で、映像は進んでいく。冒頭でふたりがそれぞれに自身の来歴、いわばかれら自身についてのライフストーリーと家族のヒストリーについて、映像を見ているわたしたちに紹介してくれる。遅刻してしまってウヒの部分は見逃してしまったけど、クリスチャンの部分はほとんど見ることができた。クリスチャンを大雑把なことばでまとめてしまうと日系(アメリカ系?)スイス人。(母方の)祖父母が日系人差別を受けた世代の日系アメリカ人2世で、母が日系アメリカ人の3世。父はたしかスイスのひと。

ちょうどこの間アメリカのロサンゼルスに行ったばかりだったので、日系アメリカ人について映像のなかで触れられていたことに、どこか運命のようなものを感じてしまった。ちょっと大げさかな。アメリカでのこともそのうち書かなきゃだな。絶対に書き残さないといけないわたしの内面についての気づきがあったから。

いい意味でも、あんまりよくない意味でも、あまりにも多くのことが引っ掛かる映像だった。映像が手元を離れてしまったいま、それをひとつずつ思い出しながら丁寧にひもとくのは難しいけど、上映後にあわてて書き留めた(といっても携帯の中に、だけれど)メモを頼りにできるだけ書き出しておこうと思う。

Japanese(Japan?) originが「日本人」と訳されていたこと

冒頭でクリスチャンが自分の祖父母について話していたとき、クリスチャンは"Japanese origin”というような英語を使っていたのに、日本語字幕ではその部分がそのまま「日本人」と訳されていた。ここってそんな風に訳してしまってはまずいんじゃないか。上映終了後のアセンブリーでは「日本人とはだれのことなのだろうか」というような質問が用意してあったし、映像をつらぬく主題としても、「日本人」とは、カテゴリーとは、共同体とは、という部分に対する疑問や問題提起があるように見えた。にもかかわらず、この訳をが字幕として載っていたことがわたしには不思議でならなかった。どうしてだろう。

教師に指摘されたことで日本語を話さなくなったクリスチャンの祖母(レイ)
日本語教育学会に持っていったらどうなるかな。というのは冗談だけれど。第二次世界大戦時の日系人排除によって、クリスチャンの祖父母はもともと住んでいた場所を追われ、強制収容所に移された。かれらはふたりともアメリカ生まれアメリカ育ちだったが、「日本人」であることを理由に排除された、という出来事をきっかけに自らを「日本人」だと思うようになっていったという。そのあとの詳しい経緯は忘れてしまったけど、なんやかんやあってアメリカから日本に派遣されることになった。ふたりにとって、ある意味故郷ともいえる日本で、レイはとある教師に彼女の話す日本語は"farmer Japanese"であると指摘される。そして、その指摘をきっかけに彼女は日本語をあまり話さなくなってしまう。彼女にそんな指摘をした教師は本当にくだらないし大嫌いだけれど、たぶんその教師は「よかれ」と思ってその指摘をしている。「正しい言語」を決定できる「教師」という存在が持つ「権威」。「正しい」日本語を教えてあげようという「やさしさ」からの指摘なのかもしれない。なにより、その教師みたいなひと(教師ではなくてもいい)はたぶん今の日本にもごまんといる(日本だけじゃないかもしれない)。こんな教師の指摘によって自分のことばを失ったひとは少なくないんじゃないだろうか。なんて、そう思うのは日本語のクラスで権威を(半分無意識に)振りかざす教師を目の当たりにしてきたからだろうか。けれど、わたしもまたそのくだらない教師が持っている考えの枠組みを、自分のものとして持っていることを自覚している。「言語」と「正しさ」との関係、バランスについてはまだ考え切れていないなとしみじみ思ってしまった。わたし自身の経験に直接的にかかわることだから、余計敏感に反映してしまうのかもしれない。

Cultural studiesと出会って息をする場所をみつけた、と言ったウヒ

思わず泣いてしまったシーン。ああ、ウヒはわたしだなあと思ったりしてしまった。ホール・スチュアートのアイデンティティに関する論考を見つけたときの感覚に似ているかもしれない。うまく説明できない。

I don't want to deny anyone. というウヒのことば

例えば、朝の電車で知らないおじさんが思いっきりぶつかってくるとき。わたしの場合、一瞬怒りを感じるものの、それは徐々に驚きやある種の同情に変化していく。基本的には性善説に基づいて生きている/生きていたいから(仕事中はそうでもないかもしれないけど)、どんな人でもその人なりの事情があるんだと考えるようにしている。なるべく。思春期を迎えた娘に「クサイ」と言われて朝からヘコんでたのかなとか。まあ、ほんとうはそういうことがあっても、人にぶつかっていくべきではないけど。

自分から見えるひとつの側面やある1点だけで人を判断したくないし、その点だけですべてを否定したくない。ウヒが言ったのは少し違う文脈だったから、彼女のことばを勝手にわたしの文脈で読み替えてしまったかもしれない。

しぶんを語る言語がみつからないと話したウヒ

ウヒが自分を紹介する部分を見逃してしまったことが惜しい。日本語と韓国語と英語があって、それぞれがたぶん彼女にとっては家族のだれかと繋がることばだった。(おばがアメリカに住んでる)台湾文学をちょっとだけかじったときに出くわした、日本の植民地であった時代の台湾の作家たちのことを思い出した。日本語で教育を受けたかれらだから、台湾のさまざまな風景や事象を描くのに日本語を使う。それはつまりどういうことなのか。

 

 

上映のあとに、「アセンブリー」という感想を共有しあう場があった。最初は社会学の研究者がいるテーブルに座っていたけれど、人が増えすぎたので自由に感想を語るテーブルに移動した。作者である田中功起さん、こないだまでヨーロッパにいたひと、エキストラで参加したひと、わたし、同じくエキストラで参加したひと(だったかな?あいまい)、映像作品をつくっている高橋耕平さん、友人に紹介されてきたひと、友人に紹介されたひとの友だち、演じるひととして舞台に立ってきたひと、あわせて9人。この9人で映像について話した。
どうして上映会に来ようと思ったのか、という質問から始まった。そして、それぞれのリズムでぽつぽつと、感じたことや考えたことを話す。この感じ、好きだなあと思いながら、話す人をじっと見つめながらそのことばを聞いていた。考えたことや話したことにまとまりが全然ないから、長さも文章の終わり方もばらばらの箇条書きのまま載せちゃう。

・クリスチャンはウヒの感じとっている世界を理解しているようで全くしていない。いつも数センチ的外れなことば(慰めのような何か)をウヒに投げかけている。(わたし)→ノッテルダムで上映したときには、クリスチャンの無理解さに怒っていた香港のひとがいた。ヨーロッパでは社会階層の差が大きいために、いわゆる「上流」といえる階級に属しているクリスチャンには、ウヒが感じるような事柄を感じる機会がなかったのかもしれない。(田中さん)

・友だちの何人かを思い出しながら話を聞いていた。在日コリアンの3世だか4世だけど親戚以外にコミュニティへのつながりはなく、また関心もない。在日コリアンの歴史についてもあまり知らないようだし、興味もない。誰もが知るような大企業に勤めているが、日本の名前に日本の国籍だから、会社でそのひとが「在日コリアン」だと知るひとはあまりいないかもしれない。わたし自身が高等教育を受けたひとだから、まわりにそういうひとが多くなるんだろうけど、階級だけではなく、住んでいる場所の差とか、受けてきた教育の差とか、望む望まないにかかわらず「祖先」についての知識(や関心)の差とかによって、たぶんそのあたりの考え方ってものすごく違う。
・東京と地方という断絶をどう受け止めればいいのかわからないままでいる。
・信条が合わないひととの個人的な対話はどのように行うべきか。そもそも行うべきなのか。精神衛生的には避けたいけれど、良い社会なるものをつくるためには必要だと思っていて、矛盾していることを自覚しながらずっと葛藤している。これからもたぶん葛藤することになる。

・わたし個人の幸せと、わたしが幸せになるための社会。それは相反するものなのだろうか。
・じぶんをマジョリティと信じられることの傲慢さ。一方でそう信じられるひとたちのことをどこかうらやましく思うわたしもいる。じぶんがマジョリティであることが申し訳ないなんて言ってしまえるひと、じぶんが「マイノリティ」にカテゴライズされるなんて考えたこともないようなひとは、言い換えればつまり「おまえは何者なんだ?」と問いかけられる場面に遭遇したことがないひとである、ということだと思うから。
・撮ること、表象することのの暴力性について、田中さんはどう考えているんだろう。(わたしは「表象すること」に対してつよい欲望があると同時に、そのことをすごく恐れてもいる)
・映像があまりにも「綺麗」すぎると思った。

在特会のことはずっと知っていたし、嫌悪してきた。けれど、映像で見るのは初めてだった。耳をふさぎたくなる罵詈雑言。何かきっかけがあるわけでもない赤の他人に対して、激しい憎しみを何の臆面もなくぶつけられるかれらに、予想していたとおりの恐怖を感じた。けれど、一方でかれらをそのまま断罪してしまうのも憚られた。こういうとき、わたしはいつも葛藤してしまう。かれらの行動は許されるものではないからと、かれらを掃いて捨ててしまうべきなのか、それとも、かれらがこのような思想を抱くに至るまでのプロセスに想いをめぐらすべきなのか。