みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

わたしはどこまで「正しく」あることができるのだろうか

そんなことを考えてる。馬鹿みたいだと笑われるだろうか。

きっかけは知り合いに署名を求められたことだった。その知り合いはいわゆるマイノリティと呼ばれる人々の支援活動をしていた。彼らに対する不当をなくすために、賛同の意をあらわす署名を求められた。もちろん任意で、だ。結果からいうと、わたしは署名しなかった。署名をすることが、これまでのわたしの言動に一致していて、わたしの信念とも一致していると感じながらにもかかわらず。もちろん、実際にどのような活動をしているのかを詳しく知らなかったということもある。だが、「この署名をしたことで、将来のわたしの人生に不利益があったらどうしよう」という考えが自分のなかに浮かんだこと、そしてわたしはそれに従ったこと、それはなかったことにはできない事実だ。

しばらくして、不意にあることを思い出した。中国でとある教養クラスに参加したときのことだ。「もし今ふたたび文化大革命が起きたら、あなたはどうするか」教授はそう言ってざっと教室を見回した。文化大革命。「きみたちは自分の信念を曲げる? それとも、つらぬく? それが死につながるとしても?」教授はそのようなことをわたしを含む学生たちに問いかけた。

わたしの信念とわたしの生活とを天秤にかけること。いくぶん大げさな表現かもしれないが、自分の生活が脅かされるかもしれない状態で、わたしは自分の信念を貫くのか、貫こうと思えるのか。

その直後、NHKで深夜に放送されていた『100分deメディア論』という番組を見た。チャンネルを適当にまわしていたら『オリエンタリズム』が取り上げられていて、お、と思ってそのまま見ていただけだった。次の日、わたしは書店で『1984』(ジョージ・オーウェル)という本を買った。肉体的な拷問によって「改造」(これは中国の文化大革命のときに実際使われていた単語だった)されていくさま。生のまえにはわたしの信念など粉々になるのではないか。絶望にも似ていた。

そして『トガニ』という韓国映画聴覚障害を持つ子供たちに対する性的暴行を告発した小説が原作で、実際に起きた出来事が基になった映画だった。主人公は目撃した暴行を告発するか、それとも自分とひとり娘のためにそれらを黙認するか、その間で葛藤する。ああ、まただ。倫理と生活を天秤にかけるという難問。

そして次に手に取ったのが伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』だった。10年以上彼の作品を読んできた。『魔王』あたりから徐々に「政治」についての話が多くなっていったことに当時のわたしは正直辟易していて、初期作品とは違ってすべての伏線がすっきり回収されないまま、後味悪く終わるようになった彼の作品に対してやや否定的ですらあった。この作品をこのタイミングで読んだからなのかもしれない。やっと分かったような気がした。読んでいて気持ちは良いかもしれないけれど、実際のところ、勧善懲悪は存在しない。最後に正義が勝つわけではないし、悪はいつも分かりやすいものとしてそこに存在しているわけではない。フィクションなのだから現実のめんどくさいことを忘れさせてくれよ、という気持ちがないわけではない。けれど彼の作品は、現実を反映すること、そして現実に辟易している人々を癒し楽しませること、その両方を満たすものなのかもしれない。そう思った。

ここまで、わたしは自分の葛藤の所在について、わたしの信念/倫理と生活とを天秤にかけるところにあると表現してきた。この作品ではそもそもわたしが持っている信念の「正しさ」にも疑問を投げかける。それは「正しい」のか。そして、もうひとつの問い。わたしはすべての人を「救う」ことはできない。では、だれを「救う」のか。選択すること。ひっくり返せば、それは、何を捨てるのか、ということでもある。

ここまでこのような作品が続くならと思い、韓国の光州事件を取り上げた『タクシー運転手』という映画を観に行った。国家権力が暴力を振るうことの恐怖に、映画館で叫びだしそうになった。実際に起きた出来事を基にしているとはいえ、目の前のスクリーンで繰り広げられる様々な出来事は表象でしかない。それを分かっていてなお、すさまじい恐怖と絶望がわたしを襲った。わたしが繊細すぎるところもあるのだろう、悲しみからではなく絶望からくる涙でアイメイクが全部落ちた。光州事件を知らなかったわけではなかった。文化大革命天安門事件を知らなかったわけではなかったように。しかし、わたしはこのつくられた映像を通してその恐怖を知った。そして、主人公の葛藤。光州に戻るべきか、それとも見たものを見なかったことにしてソウルに戻るべきか。平凡な市民である彼。それはわたしでもあった。

たぶんPARAMUSHIRを観たことも、こんなめんどくさいことを考えるきっかけになっている。たぶん、主に「戦争」という「国家権力の暴走」という点で。

いくつもの事柄が絡まっていてまだうまくほどけきれていない感じがする。考えすぎているような気もする。けど、考えずにはいられない。今になってやっと、わたしが思っていた以上にヘイトスピーチ(憎悪発言)が普遍的になされていることを知ったからなのかもしれない。断絶。排除。わたしは、それがこわい。そしてそれらが起きたときに、わたしは「正しく」あることができるのだろうか。わたしの身に、わたしではない誰かの身にそれらが降りかかったときに、果たしてわたしは「立ち向かう」ことができるのだろうか。